講演・寄稿等 目次
講演や寄稿などを通じて表明した私の考えや主張、また有識者の諸先生にお願いした講演やインタビュー、さらには私が実施した海外特別企画旅行の模様などを掲げました。いずれも「日本と世界」のテーマが背景にあります。
- カンボジア柔道を応援しよう
カンボジア柔道を応援しよう!
いま、カンボジア柔道ナショナルチームが愛媛県松山市で特別強化合宿を続けています。その訳をお話ししましょう。 アセアン10カ国を中心とする地域のオリンピックというべきシーゲーム(SEA Games:東南アジア競技大会)をご存知ですか。大変盛り上がるそうですが、本年5月プノンペンで開かれます。 私は20年余り前に駐カンボジア大使として勤務していた時に柔道をしていたご縁で、昨年来カンボジア柔道連盟とフンセン首相御自身からこの大会でカンボジアがメダルを取れるよう選手の強化育成を頼まれています。 そこで現役時代の実績と海外指導経験が豊富な濱田初幸先生(8段)にお願いして、昨年10月から12月半ばまでプノンペンで、その後先生の地元の松山でカンボジア・ナショナルチームの強化合宿を続けています。濱田先生の熱血的な指導で、当初柔和だった選手たちの顔つきが変わり、激し過ぎるほどの訓練に耐えられるようにもなり逞しくなっています。2月からはオリンピック・メダリストの中村美里さんも指導に加わります。また戦争から逃れてカンボジアに滞在している2名のウクライナ柔道選手も合宿に加わりカンボジア代表として大会に出場予定です。一行は3月にはプンノンペンに戻り5月のシーベームまで特訓が続きます。 この強化合宿には様々な費用がかかり、カンボジア・シーゲーム組織委員会も費用の一部を負担していますが、私ども「カンボジア柔道応援団」も費用集めで奔走しています。 現時点ではアセアン諸国の中でも柔道では最下位のカンボジア選手が5月にメダルを手とれるよう、ぜひご支援・ご協力ください。詳しくは、下記をご覧ください。 (2023年1月27日記) カンボジア柔道応援団 小川郷太郎 12月、選手団が松山に到着、濱田先生(中央)と地元の方々から温かく歓迎された。お揃いの防寒衣は地元の方々が寄贈。 松山市常盤同郷会道場でウクライナ選手や地元の人たちと合同稽古 お問い合わせ先: 小川郷太郎 Tel: 080-5384-0786 Email: gggonp@gmail.com カンボジア柔道応援団事務局 〒272-0146 千葉県市川市広尾 1−6−3(株)ウラタ 担当(日本) 小林若菜 TEL: 047-359-2111 Email: kobayashi@urata.co.jp 担当(カンボジア)山崎麻美 TEL: (+855)23-901-250, Mobile:(+855)89-556-035, Email: yamazaki@urata.co.jp 協賛金振込先: USドルの場合: OGAWA GOTARO Cambodian Public Bank Account No. 010-02-30-73401-3 日本円の場合: 「カンボジア柔道応援団」 みずほ銀行新浦安支店(342 ) 口座番号 普通3003560 - 海外との交流増へ新予算創設を
以前から主要紙への投稿や講演などで主張していることを、この度日本経済新聞の経済教室「私見卓見」欄に投稿したところ、2021年8月9日の同紙に掲載された。
国の借金が増え続ける中で、国際交流での新しい予算創設の主張は政治や官僚のレベルで真剣に受け止めてもらえなかった。近年中国の台頭で防衛予算を着実に増大する必要が高まり、また、コロナ対策で膨大な予算を必要とするなかでは一層その実現は難しい状況かもしれない。
それでも私は主張を続けたい。国家間の相互理解の増進は防衛費と同様に日本の安全保障に資するものである。いまや5兆4千億円のレベルに達しつつある防衛予算の0.1%か0.5%位を充てていただければ相当の交流が実施できるからである。
- 海外との交流増へ新予算創設を
- 「北斎」をテーマにストックホルムで能と展示の公開
- ハムレットの城で能「オフィーリア」公演
- アジア太平洋情勢と日本の役割
- 世界をつなぐ、日本の文化
- ハワイ特別企画旅行
- 第2回カンボジア特別企画旅行
- 石澤先生のアンコールワット講演
- デンマーク社会の驚異的な現実
- 在日外国人の見た日本
- 日本人海外ボランティアのやりがい
- ル・モンド特派員の語るフランス
- 私のフランスとフランス人への思い
- 歴史認識シリーズ:総理談話について考える
- 歴史認識シリーズ:日韓対立の真相は?
- 歴史認識シリーズ:日中関係を考える:「歴史」への対し方
- 戦後70年、歴史認識を考える
- 韓国李忠源東京特派員の話
- 王敏先生の日本と中国論
- 平和について考える:海外生活で気付いたこと
以前から主要紙への投稿や講演などで主張していることを、この度日本経済新聞の経済教室「私見卓見」欄に投稿したところ、2021年8月9日の同紙に掲載された。
国の借金が増え続ける中で、国際交流での新しい予算創設の主張は政治や官僚のレベルで真剣に受け止めてもらえなかった。近年中国の台頭で防衛予算を着実に増大する必要が高まり、また、コロナ対策で膨大な予算を必要とするなかでは一層その実現は難しい状況かもしれない。
それでも私は主張を続けたい。国家間の相互理解の増進は防衛費と同様に日本の安全保障に資するものである。いまや5兆4千億円のレベルに達しつつある防衛予算の0.1%か0.5%位を充てていただければ相当の交流が実施できるからである。
「北斎」をテーマにストックホルムで能と展示の初公開
(注)海外との文化交流を支援する目的で2015年に一般社団法人「鴻臚舎」を設立して2019年まで能の海外公演やカンボジアの伝統舞踊団の招聘公演などを実施した。能の海外公演は、金春流櫻間會第21代当主が主宰する公演の支援であるが、2016年から19年まで毎年欧州各国で実施してきた。現地ではいずれも私の想像以上の熱い反響をいただいて、文化交流としての効果に意を強くした。
この記事は、2018年5月から6月にかけて日本とスウェーデンの外交関係150周年記念行事の一環として新作能「北斎」公演と北斎画の展示を行った時の概要である(写真は三上文規氏の提供による)。幸い、櫻間右陣師作・演出・主演によるこの能も熱い反響をいただき、展示も予想をはるかに超える入場者を得た。
(以下本文)
日本とスウェーデンの外交関係樹立150周年の記念事業の一つとして、櫻間右陣師による新作能「北斎」が5月末にストックホルムで演じられた。このために作られた演目なので、もちろん本邦海外を通じての初公開である。能公演に合わせて、北斎の多彩な芸術活動を示す「北斎展」も実施した。
19世紀にヨーロッパの印象派画家をはじめ世界の多くの芸術家に多大な影響を与えた葛飾北斎。「富嶽36景」に見られるような人を驚かす斬新で独特な絵画構図、版画・肉筆画・挿絵その他多岐にわたる膨大な数の作品群、自ら「画狂老人」と称して90歳で死ぬまでひたすら画を描き続けたことなど、北斎を巡る話題は事欠かない。だから、この異才の生き様を伝統的な能の手法で世界に紹介することは画期的な試みであったし、様々なジャンルの作品群を展示することにより世界に稀有なこの人物を浮き彫りにすることも新基軸であった。
公演の初日は市民文化会館で行われた。700席のこの劇場のチケットは完売で、3階席まで観客が埋まっていた。2日目は、国王・王妃両陛下のご臨席のもとでユネスコの文化遺産であるドロットニングホルム宮廷劇場で「北斎」と「杜若(かきつばた)」が演じられた。場内が古色蒼然としたこの劇場は18世紀後半のグスタフ3世国王時代に作られたものの由で、奇しくも北斎が生まれた直後の建物である。舞台両脇にはあらかじめ描かれた岩や森の絵の舞台装置が置かれ、演目の内容に応じてこれらを舞台に引き出すことができる。波や雷の効果音を出す独特の発生装置も据え付けられていることでも知られている。音響の良さは、能の始まりの笛の音の冴え渡り方で直感できた。
「北斎展」が行われたミレスゴーデンはスウェーデンの著名な彫刻家ミレスの作品を庭園に展示する美術館であるが、市内各所に貼られたポスターのせいもあって、いつにない数の老若男女が世界的に知名度の高い北斎を見にやって来た。「富嶽36景」のような版画は広く知られているが、今回は普段目につかない「読本挿絵」にも焦点を当てて展示した。美術館側は意気込んでそのうちの2~3枚の壁いっぱいの大型コピーを作成し展示したので、来訪者は北斎の奇抜な挿絵に驚嘆して見つめていた。入り口には「神奈川沖裏波」の大型の装置が置かれ、来訪者の多くがそこで写真を撮って楽しんだ。2週間にわたる展示の最終日の前日には櫻間右陣師も参加するシンポジウムを行なったが、多くの来訪者が熱心に耳を傾け、北斎のこと、北斎が生きた時代背景のこと、能などについて活発な質問もあった。場所を提供してくれた美術館の女性館長も大入りの盛況に大喜びである。
北斎の世界的知名度もあってか、今回の2本立ての企画にはスウェーデン側が極めて積極的に協力してくれた。現地の山崎大使はじめ日本大使館からも当初より強力に支援していただいた。北斎行事を構想し懸命に準備を進めた日本側関係者の努力も言うまでもなく、今回の行事はこれら三者の協力により盛会裏に終わり、これを実施した鴻臚舍としても満足すべき結果であった。新作能「北斎」については、日本から見に来た方々の間で「こんなに素晴らしいもの、日本でもやってほしいわね」と言う声が聞こえた。ご覧になれなかった方々のために、おおよそ次のような筋書きで能が展開したことをご紹介したい。
諸国一見の旅の僧(ワキ)が北斎の終の棲家である浅草に着いて北斎の回向をしようと思うと、不思議な老人(シテ)が現れる。耳の大きな痩せた老人であるが眼力や気力は壮年の風貌で、「ひと筆いたそう」と言って大きな筆で画を描く仕草をする。これは北斎の亡霊で、地謡が、90歳の北斎が臨終に際して「あと10年、それが難しければあと5年でも生きられたら真性の画家になれるのに」と言い放って北の空に昇ってかき消えて行ったことを物語る。地謡がさらに北斎の作品や生涯を語る中で、旅の僧が北斎の波の絵などの作品を思い起こしていると、そこに白波の精霊(子役)が現れて舞う。地謡が、天から雨が滴り落ちて波涛をなす様を語る。今度は青波の精(シテ)が現れて共に舞う。青波の精の衣装は今回のために新調した鮮やかな青緑と白の色調である。囃子方の音楽のテンポが高まり、大波小波、白波青波の精霊が気を通じあって活発な舞を展開する。シテと子役が細く切って作った白と青の紙の糸の束を投げて波の動きを立体化して見せる。このとき予期していなかったが、ユネスコ文化遺産であるこの舞台の奥に据え置かれた波の装置が動き出して、あたかも波がうねっているような雰囲気を醸し出した。舞台の背景には「神奈川沖浪裏」や「凱風快晴」の版画が大きく映し出されるなかで、お囃の音楽が一層心地よく響き渡り、地謡がさらに北斎の生涯を語って舞台は最高潮に達する。
公演では、演者の台詞や謡の詞章を英語の字幕で解説した。どこまで理解されたかはわからないとしても、観衆は目をかがかせて舞台を見つめていた。終わると大きな拍手が起こったので、日本では行わないが、演者はカーテンコールに応えるように舞台に戻って来てお辞儀をした。また、拍手が起こる。
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(写真提供 三上文規氏)
ハムレットの城で能「オフィーリア」公演
(注)海外との文化交流を支援する目的で2015年に一般社団法人「鴻臚舎」を設立して2019年まで能の海外公演やカンボジアの伝統舞踊団の招聘公演などを実施した。能の海外公演は、金春流櫻間會第21代当主が主宰する公演の支援であるが、2016年から19年まで毎年欧州各国で実施してきた。現地ではいずれも私の想像以上の熱い反響をいただいて、文化交流としての効果に意を強くした。
この記事は2017年8月、デンマークのクロンボー城における国際シェークスピア祭で演じられた新作能「オフィーリア」公演の概要である。
はじめに
デンマークのクロンボー城を御存じですか。シェークスピアの戯曲「ハムレット」の舞台となった古いお城です。その城で毎年国際シェークスピア祭が行われていますが、2017年8月22日、23日の両日、日本の能が初めて参加し、新作能「オフィーリア」を上演しました。この能を制作し、演出し、自らシテとしてオフィーリアとハムレットを演じたのは、私が日頃応援している金春流の能楽師櫻間右陣先生を中心とする諸先生方です。
私自身は能のことは素人でわからないのですが、どのようにして能の手法でハムレットの世界を演出するのか興味津々でした。能の舞台は現実の世界を表現するのではなく、昔の人の霊や亡霊が登場して語ったりしますが、今回の「オフィーリア」ではホレーショの子孫が昔のことを語るという想定で、最初に出てくるのがオフィーリアの霊で無言の舞を演じます。幽玄な雰囲気を感じさせた後、狂言師が墓掘り役として登場しユーモラスな仕草とセリフで観客の笑いを誘います。最後の段でハムレットがレアーティーズとの決闘を演じますが、能の形式での立ち回りで大変見ごたえがありました。
ジャンルの異なるハムレットと能の組み合せは画期的試みですが、なるほどと思う戯曲の構成のおかげでしっくりとした感じで相性は良かったと思いました。シェークスピア祭側の総合芸術監督が、「ハムレットの世界を能という芸術で表現してくれたことは実に革新的で、このようなことが実現できたことを誇りに思うと繰り返し評価してくれました。
日本人の私が能の理解度が低いこともあるためでしょう、外国の人に能を楽しんでもらえるだろうかと案じていましたが、そうでもなさそうです。昨年イタリアとの150周年行事の一環として4都市で能公演をした時もそうでしたが、公演中は、観ている人たちが目を輝かせて舞台を見詰めています。大きな拍手で終わった後もその場にとどまっている人が多く、興奮した面持ちで感想を述べたり、質問をしてきます。余韻を楽しんでいるような人もいます。細部はわからなくても、身体で雰囲気や感興を楽しんでいるように思えて、欧州での能公演に自信が出てきました。以下にその時の様子を再現してみます。
舞台周辺の情景
シェークスピア祭の特設舞台は、城と城壁を背景にして濠と陸地に跨って作られている。日没の遅いヨーロッパの夏は開演時間の午後8時でもまだ明るい。大きな舞台の後方に北欧材の白木の板を繋ぎ合わせた屏風が立つ。同じ板を床にも敷いて舞台と橋掛かりにしている。色も塗らない裸の白木が却って清楚感を醸し出す。高い天井の下に背景のクロンボー城の姿が見える。9時過ぎに暗くなると濠の水が照明に反射してゆらゆらとうごめいて恰も薪能を思わせる。ときどき背景の暗い濠に白鳥が滑るように泳ぎ出て、そこに光が当たるとまるで演技に参加しているかのごとくで、幽玄さを増してくれる。
いくつかの海外の公演を見てきたが、現地の状況に合わせて舞台を作る能の柔軟性はとても高いことに気付く。野外なので天気が心配されたが、前夜のリハーサルの時とは打って変わって空は晴れて風も弱く、寒さは厳しくなかった。
創作能「オフィーリア」のシナリオ
①囃子方の音楽がリズムをもって徐々に高まるなかでシテの右陣師によるオフィーリアが登場。赤い花を手にして無言の舞を舞う(約20分)。幽玄の世界が感じられる。
②オフィーリア退場のあと、ホレーシオの子孫(ワキ)が登場。この子孫が先祖から聞いた話を伝えるという設定。ホレーシオ自身のセリフは短い。
③狂言役が墓掘りとして登場。仕草がとっても面白い。真っ白なボールを頭蓋骨として表現。
④ワキが舞台前方右に不動の姿勢をとる中、シテのハムレット(右陣師が冒頭のオフィーリアと2役)の霊が登場。セリフを交えて舞う。
⑤約20分の休憩のあと、囃子方の息の合った奏楽に乗って、オフィーリアが冒頭のときとは違う花柄の衣装で登場。この時の演舞は右陣先生ではない若い女性が担う。
⑥オフィーリア退場のあと、再びハムレットの霊が登場。この時は衣装も面も違うが。面の表情が憂いと悲しみを湛えているようで何とも言えず素晴らしい。ハムレットとレアーティーズとの決闘は日本刀を持っての立ち廻り。見ごたえのある名演技である。最後にハムレットは飛び上がったうえで墓の中に倒れ込んで果てる。背景のクロンボー城がライトアップされ、水面が光に反射してうごめく。
⑦終末を奏でる厳かな笛や鼓と太鼓の中で、ワキのホレーシオが、そして起き上ったハムレットが静かに退場。
(演技時間は休憩を除き合計約90分)
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(撮影:三上文規)
アジア太平洋情勢と日本の役割
(注) 以下は2018年9月20日に国際善隣協会で行った私の講演の要旨である。
私は、約40年間の外務省勤務で8回の海外勤務を経験したが、高校時代のアメリカ留学を含めると合計24年間、合計7つの異なる国で過ごしたことになる。海外生活には興味深いことが多いが、その経験をもとに「アジア太平洋情勢と日本の役割」というテーマで私が感じていることをお話ししたい。
1 私の人生で感じたこと
(1)高校3年の時、アメリカに1年間留学した。1961年から62年なので日本は高度成長を始める前である。まだ戦後を引きずっていたような段階の日本からアメリカに行って、お世話になるホストファミリーのローズ家で初めてみた巨大な冷蔵庫や1ヶ月分ぐらいの肉などの食料品が詰め込まれている大型冷凍庫などに驚嘆した。毎日受験を目指して過ごしていた日本の高校生にとって、アメリカの学校の開放感、自由な男女交際、健全な社会人を育てるような教育方針などに仰天した。日本にはない「スピーチ」という科目を選んで人前で面白く話す方法を学んだり、生まれて初めてデートしたり卒業時の大ダンスパーティーに参加したり、慣れない初体験はその後の人生に大いに役に立った。
そして、ある日、アメリカの家族との夕食で私が取り上げた原爆の話は激しい論争に発展し、その時の経験が私の将来に決定的な影響を与えることになった。私がこの機微な問題を取り上げたのは、日本の高校の旅行で訪ねた広島の原爆資料館で見た展示の強烈な印象があったからだが、アメリカの家族とも打ち解けるようになったので、あえて原爆という兵器の非人道性に触れて見た。案の定というか、私の話が始まるやいなや、アメリカのお母さんが、顔を真っ赤に興奮させて大声を出した。「ゴウタロウ、何をいうの!」その勢いに押されてお母さんを見ると、燃えるような目で私を睨んでいる。「あの戦争を始めたのは卑怯な手段で真珠湾を奇襲した日本でしょう!原爆は長く続いた戦争の犠牲者が増えるのを防ぐために投下されたのよ!」と、興奮冷めやらない勢いである。お父さん、二人の姉と高校生の弟も次に私が何を言うのかを凝視し見守っている。私は「お母さん、真珠湾攻撃のことはもちろん知っているけど、僕は兵器としての原爆の殺傷力の凄さや非人道性を言いたかったんです」と言葉を絞り出した。真珠湾攻撃や原爆についてのアメリカ人の感情や認識は知っていたので驚きはしなかったが、もともと元気の良かったお母さんの激しい感情の露出は予想を超えたもので、私の脳裏に深く刻まれた。思うに、私は無意識のうちに原爆の被害者としての立場から話したのだろうが、真珠湾攻撃の被害者という意識のアメリカ人が他方にいるのだ。同じ事象についてこれほど双方の立場が違うという事実に気づくことになった。それがきっかけでその後戦争について少し勉強をした。戦争のことをより知るにつれて、どの戦争でも指導者や兵士に至るま狂気のような状況になって非人道的、非倫理的な行為に陥り、何十万、何百万の無辜の市民が犠牲になることが避けられないことがわかってくる。だから、戦争は何としても避けなければならない。戦争回避のためには国と国が交渉することが重要だと思うようになって、私は将来の仕事として外交官になることを目指すようになった。戦争は絶対避けなければならないとの意識は、外務省勤務中ずっと持ち続けて行動した。
(2)外務省では日本と海外の勤務を繰り返して行ったり来たりするが、私はフランス(2回)、フィリピン、旧ソ連、韓国、ホノルル、カンボジア、デンマークの7カ国に在住した。それぞれの国で多くの日本との違いに出会うが、「違い」はとても面白く、学びやインスピレーションの源泉である。2、3の例を挙げれば、旧ソ連末期の経済社会体制の驚くばかりの非効率性や不合理さを目の当たりにして市場原理の重要性を実感した。人々を監視したり盗聴や検閲をする人間不信の統治姿勢から民主主義の価値を知った。カンボジアでは貧困の凄まじさに胸を打たれたが、ODAの重要性と日本的アプローチの優れた点に密かな確信と誇りを感じた。デンマークでは簡素で透明な社会システムと人間の生き方から多くのインスピレーションを得た。中でも、男女協働による家事や育児の営み、定時退社が当たり前の家庭中心の生活、日本では信じられないほどの高い税金を払いながら享受する豊かな生活などから、日本のあり方について多くの示唆を得た。
(3)いろいろな国を回ってみると、世界には無知、誤解、偏見が満ちていて、これらがしばしば国家や民族間の憎悪や紛争を助長させていることを知る。対立している一方の国は、相手の国や国民を激しく非難し敵視するが、その相手の国に行ってみると非難や敵視の理由は無知や偏見誤解に基づいていると感じることが多い。会ってみると人間はどこも同じだということがわかる。被害を受けた国民の悲しみは人間の当然の気持ちである。敵視し合うイスラエルとパレスチナの人たちがもし直接出会って話せば、相手も同じ普通の人間だということも理解できる。だから、抗争をする国同士の政府や国民は相手の立場に身を置いて考えることが重要だ。私は戦争中日本軍が全土を占領したフィリピンの勤務で各地を回ってみると、戦争中に日本軍と戦って亡くなった家族や友人の話をよく聞いた。当時の思い出や感情がまだ残っていることを感じた。韓国では、日本の植民地統治時代の「皇民化政策」が誇り高い韓国(朝鮮)の人々の心を傷つけ、特に創氏改名は家系を大事にする向こうの人々に奥深い恨みの念を残したが、そのことについて日本人が十分認識していないことが、未だに続く日韓間の感情的軋轢の背景にあることもわかった。相手の立場に身を置いて考えることが重要な所以である。
ともかく世界を回ると、どこにもいい人たちがいて、素晴らしい文化を発見することもある。会って人間として話せば、すぐ仲良くなれる。高齢になると「終の棲み家」をどこに定めようかと考える人も多いが、私にとって終の棲み家は世界であると感じている。
(4)世界を行脚していると日本を振り返ることが多い。その結果私が思うのは、日本は世界に稀な文化大国だと言うことだ。世界中の人々が日本の文化に関心を持ち、それを通じて日本人に親近感を覚える。遠いアフリカや中東の人たちも、近くてしばしば反日行動が繰り返される韓国や中国でも、日本の文化に関心と愛着を持つ人々が大多数である。その背景には、日本には世界の人々を惹きつける極めて多様な文化のジャンルがある。歌舞伎や能などの古典芸能、絵巻や浮世絵などの美術(北斎はフランスの印象派の巨匠たちも惹きつけて19世紀後半にフランスやヨーロッパにジャポニスムを起こした)、文学(俳句や近現代の文学も人気が高い)、柔道(世界中にくまなく浸透)、和食などの食文化、若者文化(マンガ、アニメ、コスプレ)等々、どれも真に世界中で人気がある。加えて、日本人が持つ誠実さ、責任感、秩序や冷静さなどの資質がある。東日本大震災の時の罹災者の秩序ある冷静な態度は世界中に報道されて賞賛された。日本人はあまり気付いていないが、これらの日本の文化力はアメリカや中国も真似のできない強力なソフトパワーであり、日本ブランドでもある。
2 世界は大変化と混迷の時代に:アジア太平洋情勢の展望
目を転じてアジア太平洋を中心に世界情勢を見てみよう。アジア太平洋には大きな変化が起こっているが、混迷を加速する要素と将来に向けて期待の持てる肯定的要素がある。
(1)超大国であり続けたアメリカが最近世界のリーダーから撹乱者になりつつある。トランプ大統領になってそれが顕著だが、実はオバマ大統領の時代からその兆候が見られた。ブッシュ(息子)大統領時代のイラク戦争などの経験をもとに、オバマ大統領は「アメリカはもはや世界の警察官ではない」と言って中東でのアメリカの軍事プレセンズを徐々に減らす政策をとった。アジアでの軍事プレセンズもやや上下はしたが低下傾向になった。超大国が隙を見せると他の国や勢力がすかさずその隙間に入り込んでくるのが世界の現実である。米国の軍事プレゼンス低下に伴い、中東地域が不安定化した。シリアの内戦が継続し混乱が深まるとアサド政権を支援するロシアが軍事介入を強め、イスラム過激派武装集団のISなども勢力拡大を図るようになる。混乱が深まり、トルコやイランの諸勢力も参入する。
そのロシアは国際的批判をものともせず2014年にクリミヤ半島を併合した。長い間軍事力強化に邁進してきた中国も東シナ海、南シナ海の島々の領有権を一方的に宣言し、そこに軍事的施設を構築して着々と海洋での支配力を強化している。アメリカの退潮を狙って国際的影響力を高めようとするロシアや中国などを「新帝国主義国家」と呼ぶ論者も出て来た。クリミヤ半島併合や根拠なく南シナ海などを囲い込むことは国際法違反であるが、これら両国は「法の支配」を主張する日本や欧州の声を無視して行動している。トランプ大統領も国際ルールを意に介しない行動をするので、今や「法の支配」と言う国際社会の重要な原則が危機に瀕している状態である。
(2)この間、中国はますます地域で支配力を強めている。中国は「一帯一路」「中国製造2025」などの壮大な構想力をもち、それを実行する力を蓄えて来た。その背景には、過去30年ぐらいを通じて蓄えた絶大な経済力があり、その経済力を使って軍事力を顕著に高めて来たことがある。東シナ海、南シナ海で領有権を主張して軍事施設を築いて来たことに対していくつかの東南アジアの国々が異論を唱え領有権を争っている。そのうちフィリピンは常設仲裁裁判所に中国を提訴した。裁判所の判断は中国の主張に根拠なしとされたにもかかわらず、中国は国際的司法判断を全く無視して、海洋主権や権益拡大を続けている。経済力と軍事力を使って自己主張と覇権主義的行動を見せている。国際社会の声に耳を貸さない傲慢な態度の意図は怖ろしい。
(3)トランプ政権は中国のこうした姿勢に危機感を持ち種々の対抗策をとるようになったが、中国は一歩も引かず従来の政策を強力に押し進めようとしていることから、米中間の覇権争いの暗雲が世界を覆うようになって来た。最近顕著になっているのは米中間の貿易戦争である。二国間の交渉で関税引き上げの脅しを使いながら赤字削減を図ろうとするトランプ大統領に対し中国は逐一アメリカに報復関税を課して対抗するので、米中貿易戦争のエスカーレーションは止まず、サプライチェーンが世界的に構築されている今日、米中間の争いは日本を含む世界の経済に深刻なマイナスの影響を及ぼしかねない状況である。軍事面では、中国はかねてより海洋主権の拡大を目指し、東シナ海から南シナ海にかけて自国の内海とすべく一方的に「第一列島線」と称する線を沖縄から台湾の東を通ってフィリッピンの方向に引き、その内側の海洋警備活動を強化している。尖閣諸島付近の海上警備活動強化もその表れである。さらに、小笠原諸島、グアム島を通ってインドネシアの方向に「第二列島線」を引いて太平洋の真ん中でアメリカとの軍事的対峙に備える構えをしている。米中間の貿易戦争や軍事的対峙の背景にはデジタルなどの先端IT技術をめぐる覇権争いがある。IT技術における世界での優位性が中国に脅かされている米国に大きな焦りがある。貿易戦争も軍事的対峙も両大国の国益がかかっており、解決が難しい深刻な事態である。
(4)アジア太平洋地域のもう一つの混迷要素は朝鮮半島だ。北朝鮮の自己認識は、小さな自国を世界中の国々が敵視して潰そうとしているというものである。だから、指導者も指導者の主張を信じる国民も自国を守るために命をかけている。小さな国が自分の国を守る唯一の手段は軍事力であると考えて、朝鮮戦争以降数十年にわたり必死に軍事力強化に邁進して来た。「ソウルを一瞬のうちに火の海」にできるような大量の戦車や大砲を備え、米軍が駐留する日本に届き太平洋にも達するミサイルを開発し、アメリカの攻撃を抑止するための核兵器保有を実現して来た。何十年にわたる北朝鮮の軍事力構築の結果、いまや韓国や米国も迂闊に北朝鮮に軍事力行使ができない状態がある。アメリカが明確に北朝鮮の体制保証をしそれを北が信じるようにならない限り、北朝鮮が核を廃棄することはなかろうと思う。何十年と手練手管で世界を相手にして国を維持して来た北朝鮮である。
(5)以上がアジア太平洋地域の混迷を助長する主要因であるが、将来の安定に向けて幾分なりとも期待できる肯定的要素も見て取れる。まず、急速に発展しつつあるインドがある。国連によると、13億の人口を持つインドは2024年にも中国の人口を凌駕して世界一になるそうだ。インドの人口構成を見ると現在25歳以下が人口の53%を占めている。先週インドに出張した。この国のインフラ整備は遅れているが、その事実はこれから経済成長の伸びしろが大きいことを示している。インドにはITの高い技術を習得した若者が多く、これからのインドの発展を担う大きな力になるだろう。インドは民主主義国家であり、日本をはじめてとして価値を共有する西側諸国とも協力しやすい関係にある。
(6)1967年に発足したアセアン(東南アジア諸国連合)は10カ国となり、安定した発展を続けている。アジアは世界の成長センターと言われて来たが、中でもアセアンは最近全体の平均経済成長率を高めて発展している。経済や社会の発展のために協力し合い、国際的な政治問題でも協調を図るようになって来た。今日「アセアン共同体」構築を目指して域内10カ国間の協力関係を強化している。2015年にはその一要素である「アセアン経済共同体」が創立され、2020年代に「政治安全保障共同体」と「社会文化共同体」を結成するため準備をしている。日本はアセアン発足当初からODA などを通じ一貫してアセアンを支援し、これがその後のアセアンの経済社会の発展に多く寄与して来た。我が国は引き続きアセアン共同体構築を支援しており、今後も地域の安定勢力てとして日本の重要なパートナーである。
(7)このアセアン10カ国は、日本、中国、韓国の3カ国とも様々な面で協力する努力をして来た。日本も「アセアン+3(日中韓)」の連携に努力して成果もあったが、その後日中間や日韓間の歴史問題などをめぐる確執もあってうまく進捗しないこともあった。しかし、最近は「アセアン+6」の連携への萌芽が見られるようになった。この6カ国とは、日中韓の3カ国に加えたインド、オーストラリア、ニュージーランドの6カ国である。発展するインドや価値観を共有するオーストラリア、ニュージーランドとの連携は、より大きな地域での協力関係を実現するために重要である。最近中国が日本との関係改善に舵を切って来たことも追い風である。「アセアン+6」連携の当面のきっかけは、RCEP(東アジア地域包括的経済連携協定)合意に向けた交渉の進展である。アセアンにこれら6カ国を加えた全体では世界の人口の半分を占め、GDPや貿易額は世界の3割を占める。この巨大な広域圏で貿易や投資などを通じたヒトやモノの動きが自由化されるとその効果は計り知れない。
3 日本の役割は何か
このように、アジア太平洋地域には混迷を助長する要素と連携に向けた肯定的要素が混在する。近年、国際社会での存在感が低下している日本はどうすべきか、どんな役割を果たすべきか。
(1)先ず、一体化を強める日米同盟をどう運営すべきかという問題がある。北朝鮮のミサイルや核開発による脅威が増し中国も軍事力を背景に高姿勢が続く中で、単独では対処ができない日本は日米同盟を強化するしか方法がない。安倍政権は4年前、集団自衛権行使を容認する政策に転換し日米同盟一体化の動きを強め、米軍と自衛隊の共同訓練も増している。周辺の脅威に対応すべく防衛力強化のための予算も増加傾向にある。中国の軍事力強化と海洋活動強化に伴い周辺国の軍事費も上昇している。軍事費は一旦上昇するとそれが継続し周辺国との軍拡競争も助長され、軍需産業の後押しもあって逆転させることは通常極めて難しい。さらに、トランプ大統領は、米国製武器購入増大など日本をはじめ同盟国の軍事費(防衛費)の負担増を求めている。
現状では日本として抑止力強化は必要だが、どこまで、どのような方法でそれを実現するかは慎重に考えるべきだ。方向としては、日米間の役割分担を十分協議して軍事面での対処はできるだけ米側に依頼し、日本は抑止力向上に資する非軍事的側面で役割を果たす方向を目指すべきだ。(2)2016年に安倍総理は「自由で開かれたインド太平洋戦略」という新しい政策を発表した。これは、太平洋からインド洋を通ってアフリカ東海岸に至る広大な地域において国際法に従って自由で開かれた活動が実現されることを目指すものである。換言すれば、二つの大洋を結ぶ地域において「法の支配」を実現し経済の連結性を強化して発展させる政策である。その政策の具体性は必ずしも明確にはなっていないが、日本政府は引き続きこの政策の実施を国際社会に呼びかけている。太平洋からアフリカにかけて自由に経済活動を展開することは日本にとって死活的に重要であるので、日本はこの政策をより具体化させて中国を含めた多くの国々と提携して推進していくべきである。
(3)これらの政策を推進するには中国との協調と融和の努力が不可欠である。これはとても難しい課題である。中国との協調を図ると同時に欧州やアセアン、インド、豪州などの第3国とも緊密に連携する必要がある。では具体的にどんなことができるかとの見地から例を挙げてみる。日本は中国がアジアインフラ開発銀行(AIIB)を設立して「一帯一路政策」を進める中で、ヨーロッパやアジアの多くの国が参加したAIIBにアメリカとともに参加を見合わせている。日本の「自由で開かれたインド太平洋戦略」と「一帯一路」政策は同じ方向を向いた要素を持っているので、日本は方向を転換して「一帯一路」に関与して中国との連携を探ることができよう。また、最近中国は米中関係が緊張する中で、日本との関係改善を模索している。第3国でのインフラ整備支援やODA供与を日中間で協調して行おうとの空気も出て来ているようだ。日本も積極的にこの方向での協調を図るべく中国と協議することもできる。他方で、国際法に基づかない中国の行動の抑制を促し、中国の軍事力強化に伴う周辺国との軍拡競争を反転させるべく、欧州諸国やアセアン、インド、豪州等を糾合していくことも重要だ。これらはアジア太平洋地域における「国際善隣」関係を構築することでもあるが、日本がこの方向で主導性を発揮することが望まれる。
(4)最後に、私は「国際協力費(仮称)」という新しい予算費目の創設を提言したい。これはODA予算の概念を発展的に解消させるもので、対外依存度の高い日本の国家戦略として考えるべき重要性を持つと考えて、これまで講演や新聞への投稿(例えば朝日新聞2013年3月22日付朝刊「私の視点」)で主張して来た。巨大な財政赤字を抱える中で新しい予算費目の創設は困難視されるが、この予算は、従来のODA(1997年のピークから半減した日本のODA予算を再び増やしていく必要がある)に加えて文化交流(日本のブランドでもある文化という強力なソフトパワーを活用して親日国や日本の支援国を増やす)、人的交流(青年、メディア、教員等を含め各国との交流を抜本的に拡大して、中国や韓国をはじめとする海外の人々との相互認識を改善する)、技術協力(例えば、環境対策技術で他国を支援)、平和交流(例えば、ヒロシマ、ナガサキに海外の多くの政治家、メディア、知識人を招聘して軍縮への賛同者や国を増やす)などに使われることになる。その予算規模は増大する防衛予算を抑制しつつGDPの0.5%を目指すものとする。本年度の当初予算での防衛費は5兆円近いものになっているが、10数年にわたって削減され続けたODAの本年度の当初予算は5千5百億円台である。丸い数字で単純化すれば、防衛費を1%削減すればODAは10%近く増額できる。国の安全保障を確保する上で防衛費は重要であるが、文化交流、人的交流、その他も国家間や国民間の反感や憎悪を弱め、対立を回避しないし緩和する効果が期待され、安全保障に寄与するし、予算規模も防衛費よりずっと安価である。
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世界をつなぐ、日本の文化
(講演要旨)(2016年6月23日)
外交官40年の生活の中で7カ国に在勤し、出張も含め世界中を行脚して感じたのは、日本人は無意識のうちに文化によって世界の平和に貢献しているということである。日本文化の比類なき多様性と日本人の独特の感性が世界の心を魅了している。
比類なき多様性と斬新さは、古典芸能(歌舞伎、能、文楽などに見られる「かたち」、舞台様式、簡素・幽玄、心情表現等)、書画(絵巻、水墨画、浮世絵、かな書などに見られる独特の構図、視点、余白、流麗さ等)、文学(小説、随筆、俳句、短歌などに見られる情趣の豊かさ、余情等)、工芸(彫金、陶磁器、根付などに見られる緻密さ、ぬくもり、装飾性)、音楽(邦楽の多様さ、音階の独特さ等)、思考・行動様式(禅に見られる「般若」「不立文字」「色即是空」の概念、武士道の「死」への姿勢等)、茶道(「わび・さび」)、生花や盆栽(宇宙観を映す構成等)、庭園(自然との融合)、生活文化(スシ、和食などの食文化、マンガ、コスプレなどの若者文化)などなど、枚挙に暇がないほどである。とにかく、ジャンルが多岐・多彩であり、それぞれのジャンルの内容には欧米をはじめとした諸外国の文化にはない独自性・斬新性がある。それが世界の人々にインスピレーションを与えているのである(いくつかの例をスライドで鑑賞)。源氏物語絵巻の「吹抜屋台」の構図、水墨画として長谷川等伯の「松林図」の描かれない部分の意味あい、葛飾北斎の浮世絵に見られる大胆な構図、剣豪宮本武蔵の枯木鳴鵙図の余白や気迫、蓬莱切・高野切のかな書の美しさなど、その斬新性には目を見張らせるものがある。(さらに、「古今和歌集」仮名序(紀貫之)の「やまとうた」についての記述とそれに関する高階秀爾先生の解説を紹介)。
日本に帰化した著名なドナルド・キーン氏は「日本人の美意識」という著書で、日本人の美意識を考えると浮かんでくるものとして、「暗示、または余情(俳句や和歌にみられる曖昧さ、能楽の暗示表現など)」「いびつさ、ないし不規則性(寺院建築、陶器、書、造園、徒然草の一説など)」「簡潔(茶の湯の例)」「ほろび易さ(徒然草の一節、桜に対する日本人の心情など)」の4つを示し、それぞれについて多数の例を挙げて説明しているが、(元)アメリカ人が観察した日本人論として、とても興味深い。
私はこれまでに様々な国の様々な人々から日本の文化を称賛する声々を聞き、また日本文化が海外に与えた大きな影響を見てきた。例えば、戦争後のイラクに出張するたびに現地の首相はじめ経済界の多くの人たちから、日本の企業に是非イラクの復興支援に協力してほしいと懇願された。その理由は、日本の技術力、日本人ビジネスマンの誠実さ、責任感、謙虚さ、納期などの約束を守る姿勢などである。ロシア人やアフガニスタン人の大多数が日本文化に強い関心を持っており、とても親日的である。反日感情が強く喧伝される中国や韓国でも、実際には非常に多くの人が日本の文化が好きで親日的だ。デンマークのような小さな国の地方に行っても、日本の武道や俳句や盆栽、日本庭園に親しんでいる多くの人々に出遭って驚いたことがある。柔道については、アフリカの貧しい小さな国でも粗末な環境の中で嘉納治五郎師範の教える柔道を真剣に学んでいる人々がいた。文化大国と言えるフランスでは19世紀後半から「ジャポニスム」が風靡して、印象派の画家に多大な影響を与えたし、また、日本の懐石料理がフランス料理の革新を生んだ事実もある。カラオケ、スシ、コスプレなどは世界中を席巻し、村上春樹の小説が世界中で人気を博し翻訳されて読まれている。
要するに、他国にない日本文化の多様な斬新性が世界中の人々の心に新鮮なインスピレーションを与えているのである。この素晴らしい日本文化の価値をどう世界に役立てるかを考えることも重要である。これまで、日本文化が自然な形で世界に浸透してきたが、さらに自ら発信する努力が必要である。日本政府の文化関係予算は主要なヨーロッパ諸国や中国、韓国政府の予算に比べて著しく低い。私はかねてより、「ODA 予算」を発展的に解消させて、新たに日本の強みである途上国への開発援助、文化交流、科学技術移転、そして人的交流費用を包摂する「国際協力費(仮称)」を創設し、GDP の0.5%程度を充てるべきであると主張している。防衛費の半分であるが必要なもので、国家の戦略として考えるべきである。しかし、巨額の財政赤字のもとでは聞いてもらえない。
政府とは別に民間レベルでの文化交流を強化することも重要である。私は、柔道、高校生の世界的な交換留学推進、アジアの元日本留学生組織と日本との連携を図る組織の役員の仕事などを通じて、国際交流推進にささやかながら努力しているが、最近始めた「鴻臚舎」の仕事は、金春流能の能楽師櫻間右陣先生が推進している能の海外公演を支援するとともに来年はカンボジアの素晴らしい伝統舞踊団を日本に招聘すべく取り組んでいる。昨年は韓国との国交正常化50周年事業で日本の能と韓国の伝統舞踊の共同公演を行い、本年はイタリアとの国交150周年、アイスランドとの国交60周年の記念の能公演をお手伝いする。来年は、デンマークとの150周年、アイルランドとの60周年の記念行事に参画する予定である。海外公演への同行ツアーなどもある。
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この記事は、2016年6月、私が主宰する絆郷(きずなごう)と一般社団法人「鴻臚舎」との合同サロンで行った講演の要旨である。日本の文化が世界中を惹きつけている実情をエピソードも交えて語り、日本文化の役割にも触れた。
日本と海外を行き来する中で私は世界の中での日本の文化の大きな価値を確信するようになった。
「ハワイのことがとてもよくわかった!
2016年の3月7日から14日まで、絆郷はハワイに海外特別企画旅行を実施した。総勢15人。昨年1月のカンボジアに続く第6回目の旅である。ハワイ在住2年半とその後何度も訪ねている私にとっても、ハワイに行くときはいつもウキウキとする、「憧れのハワイ航路」である。 今回の旅行は、主要テーマとして「日系人」「ハワイの自然」「ハワイの人々との交流」「ハワイの歴史・地理」などを念頭にして日程を作成した。参加した方々が、「楽しかった」「ハワイのことがとてもよくわかった!」と言ってくれたことは、主催者として大きな喜びである。現地で協力してくれた私の多くの友人の皆さまにも感謝したい。 明治初期から始まる日本人移民の歴史展示館、日本の真珠湾攻撃の実写記録映画、ジョージ・アリヨシ元州知事のしみじみとした経験談、三澤総領事による最近の日本とハワイの関係の説明、ハワイの地理や歴史を立体的に見せるビショップ博物館、真っ青な海を見ながらの昼食やハイキング、ハワイ在住日本人との懇親会、ハワイ先住民組織幹部によるハワイ王朝廟の案内などが、ハワイのことを具体的に知るうえで役に立ったのではないかと思われる。ハワイには様々の面で日本と強い関係があることもあらためて感じられた。 以下は私の主観もまじえたそのハイライトである。 日本人移民の苦難の歴史、日系人のハワイ社会への貢献 ホノルルにあるハワイ日本文化センターには当時の移民が使った生活用品や写真が展示されているので、当時の日本人の生活やその子孫である日系人の歴史が具体的によくわかる。日本人ボランティアの懇切な説明がそれに一層現実感を与えてくれた。 明治元年に始まる移民はサトウキビ畑で過酷な労働を強いられる。1885年から日本・ハワイ両政府の合意に基づく移民が増加し、1920年代には日本人・日系人がハワイの人口の4割近くを占めるまでになった。幾多の苦難に遭遇した日本人は子孫の教育を重視し、やがて次第に日系人がハワイ社会で重要な役割を果たすようになる。彼らは、日々の生活の中で誠実さや忍耐などの日本の伝統的価値観を守りそれを実行していったが、そうした価値観はハワイ社会にも浸透するようになった。例えば、長く知事を務めたジョージ・アリヨシさんは、「おかげさまで」という言葉をよく用いたが、人に感謝する気持ちや謙虚な姿勢がハワイ社会の日系人以外の他の人々にも浸透していった。我々の夕食会に夫妻で参加してくれたアリヨシ知事は、移民1世のお父さんに教えられたことを守って誠実に忍耐強く人のために尽くそうと頑張ってきた人生を静かに語ってくれたが、その語り口に日系人の果たした役割を実感することができた。 興味深いハワイ諸島形成の歴史 ビショップ博物館はハワイの歴史、地理、地勢などを解かりやすく立体的に展示している。特に興味深いのは、火山活動で形成されたハワイ諸島の生い立ちや今でも少しずつに西北方向に移動している事実などである。長い時系列をジオ・パノラマ風に示していてわかりやすい。これからも噴火などで新しい島ができるとも説明されている。南太平洋から渡ってきたハワイ先住民の航路や太平洋のポリネシア諸島の文化やハワイ王朝の形成と転覆の歴史も興味深い。ここでは、この道何十年の旧知の浅沼さんがどんな質問にも懇切丁寧に解説してくれた。ビショップ・ミュージアムはハワイを知るうえで必見の場所である。 凄まじかった日本の真珠湾攻撃とハワイ日系人への甚大な影響 真珠湾に浮かぶアリゾナ・メモリアルは、日本の真珠湾攻撃によって沈められた戦艦アリゾナ号の上に作られた記念館である。艦内には多数の兵士がそのまま眠っている。当初は記念館に行って花を手向ける予定だったが、折からの強風で船が出なかった。それでも陸地側の施設では、日本軍攻撃時の実写フイルムが上映され、また当時のハワイやアメリカの状況が詳しく展示されているので、時間をかけてみることができた。とくに実写フイルムは日本ではなかなか見られないもので、攻撃の凄まじさを実感することができる。近くに展示された多くの写真もハワイや全米に与えた影響の大きさを物語る。 ハワイ日本文化センタ―で見た日系人の歴史の展示やアリヨシさんの回顧談なども併せてみると、真珠湾攻撃が日系人に与えた苦痛や甚大な影響を理解できる。当時の日系人はアメリカ市民であっても「敵国人」と見做されてキャンプに収容された。他方、若い日系人がアメリカへの忠誠を示すため志願兵となって、ヨーロッパ戦線に投入された。多数の犠牲者が出たが勇猛に戦い軍事的な功績をあげ、日系人への敬意の念を取り戻した事実もわかる。真珠湾攻撃によって開始された日米戦争。その無謀さとアメリカや日系人社会に与えた影響の大きさなどは、やはり現地に行ってみないと感じられない。
昨年は戦後70年だったが、三澤総領事によると、戦後続いていた真珠湾攻撃に対する厳しい日本への感情は、近年の日米関係の緊密化の中で少しずつ変わっているようだ。 自然の雄大さ、開放性、自然と人の心、ハワイに住みつく日本人 ハワイは何と言っても自然が素晴らしい。Big Islandと呼ばれるハワイ島一周遊覧ではキラウエアのハレマウマウ火口を見たほか、ブラックサンドビーチで砂の上にうずくまる海亀に出逢った。オアフ島巡りでは素晴らしい海や壮大な山の景色を楽しんだ。オプショナルツアーでココヘッドのハイキングに参加した人たちは、高いところから見る信じられないほど碧い海の色合いの多様さに感嘆した。 ハワイの風は心地よいし、すべてが開放的だ。真っ青な海を見ながらワイキキのハレクラニ・ホテルでの昼食。レストランには窓やドアがないので風が心地よく吹き抜ける。小鳥も中に入り込んできて、自然と人とが融和しているような雰囲気だ。温かい風が人々の心の中を通うような気さえする。実際、ハワイの人々の心は開かれていて、誰にも優しく親切だ。「アローハ」という呼びかけに象徴されている。 ハワイ州の人口構成は白人系は24%ぐらいで、あとは日系人、フィリピン系、ハワイアン系、中国系、韓国系など。多数の民族が混じり合い、総じて仲良く融和的に暮らしている。ハワイ島でがガイドをしてくれた日本人男性は、以前はアメリカ本土に住んでいたが、ハワイのコナに来てからずっとそこに住みついたという。村の人々がとても優しく助けてくれるし、生活のテンポが実に穏やかだからという。 ホノルルのヨットハーバーのレストランを借り切って現地在住の日本人を中心とするハワイシニアライフ協会の方々と懇親会をした。大部分の人がもう何十年の単位で住んでいるのは、自然や人々が優しいことが理由のようだ。かなりの高齢者でもとても若々しく見える。やっぱりハワイはいいらしい。もっとも、そのうちの一人は、永住しようと思っていたが最後は日本に帰ろうかと思うと述べていたが。 ハワイ王朝の悲劇の歴史 日本にいると知る機会は少ないが、ハワイには悲劇的な王朝の歴史がある。1795年にハワイ王朝建国を宣言したカメハメハ大王は1810年にハワイ諸島を統一し、その後ハワイ王朝が100年近く続いた。1881年にはカラカウア大王が日本に来て明治天皇に謁見し、日本とハワイの連邦化を提案した歴史もある。しかし、1893年に王朝は転覆されて滅亡し、その後ハワイは合衆国に併合された(1993年、合衆国議会は上下両院合同決議で併合の過程が違法であったことを認め謝罪した)。今回の旅行では、ハワイ王朝の流れを汲む組織の幹部で私のかねての親しい友人の案内で、ハワイ王朝廟を訪問した。王たちの墓の前で真摯に祈りを詠唱するこの友人のハワイ王朝への強い愛着や復権への気持ちを感じた。ハワイへの旅行者がほとんど行くことのない王朝廟訪問で、王朝の歴史に思いを馳せた。 ホノルルの美術館巡り 米国タバコ会社大手「キャメル」の創始者の一人娘、ドリス・デュークの冬の別荘、シャングリアの見学も今回の旅行の目玉の一つであった。2頭のラクダの彫刻の奥にシンプルな入り口。中はイスラムアートの宝庫。ハワイ在住の日本人学芸員のご案内で、ドリスの質の高い収集品と、こだわりの空間を思う存分堪能した。 またオプショナルツアーでは、タンタラスの丘の展望台からのダイアモンドヘッドとホノルルのダウンタウンを眺め、現代美術館スポルディングハウスの庭の散策、そして、ホノルルミュージアムを見学した。ホノルル美術館はアジア諸国の美術品が多く興味深かった。ジェームスミッチェナーの浮世絵コレクションは米国内でも最も優れたコレクションの一つで、日本で見られない広重の貴重な作品は、保存状態も良く、目を引いた。また、日本に長く住んでいたフランス人、ポール ジャクレーの版画の展覧会も興味深かった。 意外に多様なハワイの側面 今回の旅行に参加してくれた人たちは、通常の観光ではわからない様々のことが分かったと言ってくれた。でも、ハワイはまだたくさんの「顔」を持っている。 自然や人間が素晴らしいが、太平洋の真ん中に位置するハワイは人々の知的交流の拠点としての役割も果たしている。1年を通じて米本土やアジア太平洋地域から多くの学者や研究者が行き交い、ハワイの研究機関やシンクタンクとの間でシンポジウムや共同研究を続けている。 また、ここには米国最大規模の太平洋軍司令部があって、アメリカ西海岸からインド洋にかけた広大な地域の安全保障を担っている。日米同盟に基づく自衛隊との関係も緊密であり、日本の安全保障にとって死活的に重要な場所でもある。日系人や在住日本人たちのお蔭で、日本の存在感は大きい。島によって異なる大自然は多岐多様で面白い。ハワイは何度行っても楽しいし、何度も行く価値のあるところである。
(注)この記事について
数年前に私(小川)が運営していた「絆郷(きずなごう)」という会社では、原則毎年海外特別企画旅行を実施した。その趣旨は、私がかつて勤務した国や地域で興味深いところを私がご案内して、現地の人々に会い、その国・地域の良いところやにほんとのかんけいを知っていただくことにある。
この記事は2016年3月に実施したハワイ旅行のハイライトである。
現場で知るカンボジアの興味深い様々の現実
(注)以下は2015年に行った私(小川)が主宰する「絆郷」第2回カンボジア特別企画旅行の概要報告である。
1月14日から21日まで絆郷第2回目のカンボジア旅行が行われ、総勢15人は無事帰国した。参加した人たちは、とても楽しかった、学ぶところが多く感銘を受けたなどと言ってくれた。主催者としてこんなに嬉しいことはない。実際、カンボジアに3年勤務してその後も何度か行ってみた私にとっても、新鮮な感動がいくつもあった。
プノンペンとシェムリアップ並びにその周辺を見て回る8日間の旅の目指すところは、アンコール遺跡をはじめとするカンボジアの文物や現状に触れ現地の人々と接することを通じて、この国の魅力を探り、日本とカンボジアの絆を知ることである。
アンコール遺跡の壮大さと繊細な石彫が語る物語、アンコールワットの背後に昇る朝日の神々しさ、トンレサップ湖の水上生活の興味深い様相、朝、池の水面に咲く睡蓮の可憐な美しさ、多彩で豊かなお土産品など、いろいろ楽しんだが、ここでは人間的側面に焦点を当てて、私なりの旅の感想を書いてみた。人なつこい子供たち、真剣に取り組む姿、目の輝き
脚本家の小山内美江子さんが主宰するNPO法人「JHP・学校をつくる会」がプノンペンで運営する孤児養育施設(CCH : Center for Children’s Happiness)を訪問した。親がなく生きるためにゴミ山で売れそうなものを探し集めていたような子供たちを引き取って、学校に通わせるなどして育てている。数十人の子供たちが我々の前に整然と並んで迎えてくれ、礼儀正しく日本語で挨拶し、習った踊りを披露してくれた。踊りなどが終わると我々のところにきて丸い純粋な目で見つめて身を寄せてくる。可愛らしさに我々は思わず抱いてあげたりする。片言の日本語や英語での会話なので、意思は十分通じないにしても、気持ちは分かりあえる気がする。「こんなに人なつこいのは、親のいない子供たちが人間的な愛情を求めているのではないかしら」と我々の仲間のひとりが言った。階下の庭に下りて、持ってきたおもちゃなどを渡すと大喜びで、たちまち遊びの渦がいくつかできた。日本から来た大人たちとカンボジアの子供たちが、手を繋いだり遊んだりでの賑やかな交流がしばらく続いた。この施設の活動はもう12年目になる。初期のころの子供たちは立派に成長して、なかには海外に留学している子もいるそうだ。10年余り前の私のカンボジア勤務時代に、日本大使館員の夫人たちが定期的にこの施設を訪問していた。私の妻も、そのころ会った女の子が成長してこの施設の仕事を手伝っているのを目の当たりにして抱き合って喜んだ。ナックちゃんというその子はもう英語で立派に意思疎通も出来るようになっていた。帰国後に妻宛てにお礼のメールも来たほどだ。孤児たちをこのように成長させる小山内さんの教育方針が素晴らしい。
カンボジアで教育支援をしている日本の公益財団法人CIESF(シーセフ)が運営しているビジネストレーニングセンターも訪問した。そこに着くと門から教室まで両側に20歳前後の学生たちが並んでカンボジア風に合掌の姿勢で我々を歓迎してくれた。誰もが優しい笑顔を湛えている。部屋に入るとさっと床の上に整然と座って一斉にお辞儀をして大きな声で日本語で挨拶してくれた。カンボジアに最近漸く日本企業が多く進出するようになったこともあり、ここでは日本企業に就職を希望する生徒たちに日本語を教えている。印象的なのは、若者たちの笑顔と目の輝きが素晴らしいことだ。規律と礼儀の正しさは日本の学生をはるかに優るほどだ。日本語のレベルもかなり進んでいるので、我々一行は日本語で自己紹介し、学生たちと対話をした。こちらが何かを聞くと全員で声を合わせて「ハーイッ」と答える。ここでも学生たちの礼儀正しさと積極性に大いに感銘を受けた。日本人の指導者が、日本語だけでなく日本的な規律や文化をしっかり教えているからだろうが、学生たちにはそれを素直に真剣に学ぼうという姿勢がある。私流に解釈すると、明治期の日本のように、国も、それを担う若者たちも前向きに夢と意欲を持って生きているからだと思う。気持ちのいい思いで会場を後にした。
子供の教育の効果という点で、もうひとつの例に触れたい。私のカンボジアの古い友人のひとりで、並外れた情熱と行動力を持ったRavynn Coxen さんという年配の女性がいる。国内外でお金を集めNKFCという基金を創り、長年バンテアイスレイという地区の極めて貧しい村々の自立支援に取り組んでいる。自立支援活道の一環として村の少年少女たちに伝統舞踊を学ばせている。私たちは村に行って、稽古で磨いたその踊りを見せてもらった。全員の動きが見事に調和してゆったりと舞う。クメール伝統舞踊の特徴の指の動きが実に典雅で美しい。信じられないほど練度の高い踊りで、この舞踊団は1昨年アメリカの主要都市での公演で絶賛を受けたそうだ。訪米前にこれを見たシハモニ国王もこの一団を応援し、前文化大臣でクメール舞踊の国民的プリマドンナであるボッパデヴィ王女が名誉会長に就いているそうだ。学校にも行けなかった貧しい村の子供たちがここまでのレベルに達するには凄い指導者による厳しい訓練があっただろうと推察するが、Ravynnさんはこの子たちにはこの付近の寺院の神々の魂が入っているからだと真顔で強調する。ご関心のある向きは、下記URLをクリックしてご覧ください。
https://www.facebook.com/pages/Banteay-Srei-Hidden-Treasure-NKFC-Sacred-Dancers-of-Angkor/614629601902351
Ravynn女史は、我々を自宅に夕食に招いてくれて、そこでも庭で踊りを見せてくれた。
「今後日本でも披露したいから、ぜひ支援して」と言われてしまった。大きな宿題をいただいた。ODAの凄い効果、日本式人材育成の成果を知る
国際協力機構(JICA)プノンペン事務所にお世話になって、カンボジアにおける日本のODA活動の全体像の説明を受け、そのあとプノンペン浄水場とメコン河架橋の2つのプロジェクト現場を見学した。前者は、もう20年以上にわたり日本が行ってきたプノンペン市民に安全な水を提供するシステム作りと人材育成の支援活動であるが、JICAによれば、海外から「プノンペンの奇跡」とも呼ばれるほどの輝かしい成果を遂げているプロジェクトだそうだ。数字で見ると、1993年には水道管の不備による水漏れなどの「無収水率」が70%だったが、2005年には10%以下に改善した。東京都は3%程度だそうだが、先進国でも30%ぐらいのところもあるそうである。また、水道の普及率は1993年当時は僅か2%だったが、2011年には90%に改善。水道料金の徴収率はいまや99.9%という、東京を含め先進国の都市でも達成できていない率に上昇しているという。今や他の途上国がプノンペン水道公社の経験を学びに来るまでになった由だ。カンボジア人として大いに誇りに感じているらしい。
このような目覚ましい実績は長い年月にわたる日本からの支援の結果であるが、その支援の内容は浄水場の施設整備だけでなく、それを運営するカンボジア人の育成にある。それが成功したのは日本からの指導者の功績もあるが、それを真面目に学ぼうとするカンボジア側の行政官や技術陣の努力の賜でもある。実際、カンボジア人が前面に立って業務を実施しているところは他にいくつもあった。その顕著な例は、アンコール遺跡修復作業の現場にも見られた。遺跡修復作業においては国際社会の支援があるが、これまで日本とフランスが特に大きな役割を果たしてきた。日本側の態勢は、日本政府アンコール遺跡救済チーム(JSA)と上智大学のアジア人材養成研究センターが中心となっている。私たちが見学した修復現場では日本での留学や研修を受けたカンボジア人が率先して指揮しているのを見ることができた。日本の援助政策の原則のひとつは、被援助国の国民が自ら復興を担うことができるように長い期間にわたり人材を育成する点にある。ここでその成果を目の当たりにしたわけである。もう一つの視察先はメコン河に大きな橋を架けるプロジェクト現場である。南ベトナムのホーチミン市とプノンペン市を結ぶ国道1号線が横切るメコン河にはこれまで橋がないのでフェリーを使っているが、日本の無償援助で大きな橋を架ける工事が進んでいる。かなり流れの強い大河にがっちりした橋桁を構築して美しい吊り橋が出来つつあった。完成間近な大きな橋を下から仰ぎ見ると、日本の技術の素晴らしさに感激し、完成後に物流が著しく改善し経済発展に貢献するであろうと容易に想像することができる。実は、2003年にもプノンペン北方にメコン河を渡るこの国初めての大きな橋が日本のODAで完成した。当時、私がカンボジア大使をしてた時だが、フンセン首相から日本語の名前を付けてほしいと言われて「きずな橋」という名前を提案して、直ちに採用された。カンボジア政府は喜んで、すぐこの橋の写真を刷り込んだ新札を発行してくれた。今回も新しい橋の名前は日本語で「つばさ橋」と命名されるそうで、近く「きずな橋」と「つばさ橋」の双方を刷り込んだ新しいお札が発行される予定だそうだ。カンボジア官民の日本への感謝の気持ちが表れていると思う。
ODAによる日本政府のカンボジアの復興支援は上下水道、病院、通信施設をはじめきわめて多岐にわたり、また、ハードだけでなくソフト面である各分野での人材育成にも及んでいる。今回は2つのプロジェクトを見せてもらったが、その効果や意義を現場で感じることができた。
ODAは大きな効果をもたらし、現地の官民から深く感謝されている。プノンペン滞在中、私が以前から親しくしているチアソパラ村落開発大臣が一行全員を自宅に招いて歓迎してくれたが、その時の大臣の挨拶のなかに、「日本の納税者に心から感謝したい」という真摯な言葉があった。カンボジアに魅せられ、献身する日本人たち
今回の旅行では多くのカンボジア人と交流したが、現地で活動する何人かの日本人にも会った。実際にカンボジアに住んでカンボジア復興のために力を尽くす日本人はかなり多くいる。今回お会いしたのはそのごく一部であるが、10数年から20年以上住んでいる人も多い。そのなかに、森本喜久男さんという方がいる。森本さんは京都の友禅染のデザインをしていいた方であるが、カンボジアの伝統絹織物の素晴らしさに魅入られて、20年来その復興に全身全霊を投じて頑張っている。美しい絹織物の技術を持つ女性たちの大部分はポルポト時代に失われてしまったが、生き残った年配の女性技術者を探し求めて工房を作り、貧しい村の若い女性たちにその技術を移転する活動をしてきた。その間、ジャングルを切り開いて蚕を養い染料になる植物を育てて、伝統絹織物を見事に復活させつつある。森本さんの工房では、すべて手で糸を紡ぎ、天然の草木で糸を染め、素晴らしい品質の織物をつくっている。森本さんは、糸を紡ぐのも織るのも、どれも「心で行う」ものだと強調する。そこで働く女性たちも子供を近くにおきながら作業をさせることによって、女性たちの心も癒され安心して仕事に邁進しやすくなる環境づくりなどにも心掛けている。近代的な経営者の感覚も持っていることに感心した。なるほど、女性たちは長時間一心不乱に心を入れて作業をしている。出来た作品も作った人の個性や心が現れているとの説明に納得できる気がした。
前述したシーセフ(CIESF)が運営するプノンペンの教員養成学校で活動するおふたりの年配の男性は、いずれも日本で教員・教授を退職された先生方だ。そこでの生活が「天国、極楽にいるようでとても楽しい」「すごくやりがいがある」と言って、こもごも嬉しそうに眼を輝かせている。同じく前述の孤児施設CCHの日本人事務所長の木村さんも、かわいい子供たちに囲まれて嬉しそうに仕事をしている。
アンコール遺跡救済政府チーム(JSA)の若い現地責任者や上智大学の人材養成研究センタ―の現場代表もそれぞれ滞在年数が長くなっているが、黒く日焼けした満面に笑みを浮かべて、「とてもやりがいがあり、面白い」と言う。どの人からも嬉々として仕事をしている様子が伝わってくる。
プノンペンに長期間在住の神内さんというご夫妻がいる。ご主人はユネスコのプノンペン事務所長として活躍し、今も国際的活動をしたり、有力な政治家に信頼されて補佐官の仕事もしているが、その奥様は声楽家で、プノンペン芸術大学などで音楽を指導してきた。
プノンペン大学を卒業してカンボジア語の通訳・翻訳を主業務とする会社を興して十数年活躍している山崎幸恵さんにもお会いした。若い女性起業家の社長さんだ。1級建築士でかつてJSAの一員として遺跡修復支援活動に携わった小出陽子さんという方は、同僚であったカンボジア人の男性と結婚してシェムリアップに住みつき、NPO活動などをされている。その他にもカンボジアで2~3年仕事をしたが、また戻ってきて生活する人も何人か知っている。
いずれも旧知の方々だが、なぜ、カンボジアが楽しいのかと聞くと、多くの人が、「カンボジアは人々が穏やかで、親切で助けてくれるので友達になりやすい」「生活のリズムがゆったりしていて心地よい」「規模は小さくても自分の目指すことが実現しやすい」などと、ほぼ共通して挙げる。
他方で、この国で活躍する日本人の大部分の方々の心もとても優しい。上智大学のセンターの代表を務める三輪さんが話されたなかに次のような謙虚な言葉があり、深く印象に残った。「我々は遺跡の修復に一所懸命取り組んでいるが、自分たちはあくまでも外国人である。外国人がカンボジアの魂でもある世界遺産を修復支援することについて、カンボジア人はどう思うだろうか。もし、終戦後アメリカが中心になって京都の寺院や日本の文化財を修復するようになった場合に日本人はどう感じるだろうか。カンボジア人が先頭に立ってやってもらうのがいのではないか」との自省のことばである。この修復活動を指導する元上智大学学長の石澤良昭先生は、「カンボジア人による、カンボジア人のための修復」という理念を掲げている。こうした日本側の謙虚な姿勢が、カンボジア人の琴線に触れるのだろうと思う。
確かに、カンボジア人と日本人は謙虚で心情的に相性がいいように思う。加えて、ここには日本のあわただしい社会環境や日常生活では感じられない、「ゆったりした」時間や空間がある。こういう環境が好きであれば、住み心地よく感じるのは、私の経験からも大いに頷けるところである。時々カンボジアに行きたくなる私の気持ちもそういう背景があるのかもしれない。カンボジアのこれから
ポルポト時代前後の内戦や政党間の抗争を含めた「失われた30年」というべき時期を過ぎて、カンボジアはここ10年余り顕著に発展している。最近数年の成長率も7%ぐらいで推移している。街には活気がある。日本企業も遅ればせであるが、ようやくこの国に進出し始めている。成長はまだ続く見通しだが、渋滞や格差など、成長や発展に伴う負の現象も見られるようになった。発展に伴って、人々の服装や街の様子に「派手さ」も出てきたが、カンボジアの「心」が失われないことを望みたい。近年中国が顕著に援助量を増やしこの国に影響力を及ぼすようになっているが、日本とカンボジアの心の絆が日本や日本人の努力によってずっと続くことを期待したい。
皆様にも、カンボジア旅行をお勧めしたい。************************************************************************************
いながらにして、アンコールワットを堪能!
(注)以下は、私(小川)が主宰する「絆サロン」の2014年7月5日の会合の概要である。カンボジア研究家として名高い上智大学教授の石澤先生がアンコール王朝についてて懇切に解説してくださった。
7月5日に行われた絆サロンは、稀有の機会となった。まるで、いながらにしてアンコールワットの素晴らしさをじっくり鑑賞したような気持ちになった。アンコール文明研究の第一人者であられる上智大学の石澤先生が、「アンコール王朝繁栄の謎:碑文解読による歴史発見物語」と題して、160枚以上の美しく、興味深い画像を披露しながら名解説をして下さったからだ。お陰様で、あのアンコールワットの石彫の繊細さと彫り込まれた神話や戦争の絵巻模様や、庶民の生活など、彫像の意味合いを現場で見ている以上に良く理解できたし、あの夥しい数の重い石材をどのように運んできたのか、またどう持ち上げたり降ろしたりしたのかの謎に迫ることもできた。
私のカンボジア勤務の経験から言うと、一度カンボジアに行って生活すると、魅せられて、そこに戻って仕事をする日本人の例は少なくない。石澤先生はそのようなおひとりであるが、一番早くからカンボジアに足を踏み入れ、最も長く、最も頻繁に行っている方であると思う。まさに魅入られて、カンボジアをライフワークとされてもう半世紀以上もカンボジア研究とカンボジア人の遺跡修復技術者の育成のために献身してこられた方だ。
先生が冒頭に情熱を込めて語ったことから推察すると、先生がなぜカンボジアに魅せられてきたがわかる気がした。アンコール王朝は、最盛期であった12世紀の前後の600年ぐらいの間栄えた国だ。最盛期のアンコールの人口は50~60万人で世界でも4番目ぐらいの大都市であったそうだ。村々では稲穂はたわわに実り、食糧は自給自足の生活が確立していた。人々は僅かな資源で満足し、余剰な資源があれば寺院に喜捨・寄進し、王の指揮する都城の建設に協力した。生活の物差しは物質的ではなく、生きる喜びを味わいながら、争うことなく意気軒昂として暮らしていた。まさに「衣食足りて礼節を知る」生活で、ゆったりした時間の中で穏やかな民族性が形成されていった。このような生活の中で、神仏に敬虔な祈りをささげ信仰に生きる人々が考えることは来世のことであり、須弥山思想を持つようにもなった。
石澤先生は、カンボジア人のこのような国民性はいまも昔も変わらないという。確かに、今日のカンボジアは経済発展が持続し、人々の生活では少しずつ物質的欲望が頭をもたげてきてはいるが、やはり大多数は貧しい生活の中で、穏やかで謙虚な姿勢を維持している。そういうところに私を含め多くの日本人が惹かれていくのだろうと思われる。( 画像は石澤良昭先生提供)先生は、豊富なスライドでアンコール遺跡の素晴らしい石彫を解説してくれた。神話にもとづく神々による創世物語、外国人傭兵も用いた戦争絵巻、2351体もあるという美しい女神たちの群像、闘鶏に身を乗り出して見つめる市民生活の一コマ、大きな壁面を天界・現世・地獄の3層に分けて描いた神々や市民、動植物が絡み合う秀逸な構図や意匠など、細かく見るとどれも実に面白い。王女が立つそばで、女官たちが繊細で不安な表情を見せているのは、自分たちが極楽に行けるかを案じている姿だと先生が解説してくれた。広大な石のスペースにこれだけ多彩で繊細な彫刻を施すのも驚きだ。太陽が沈む際には、光が浮彫りの彫刻に刻々と変化する色合いや陰影を投影する。そういう光の効果を考えて彫り込んだ古代人の芸術性に驚嘆もする。
スライドは大写しなのでとても迫力があった。現地に行って時間的制約の中で彫刻を見て歩いていると気付かない多くのことを学ぶことができた。石澤先生は、あの膨大な数の石材をどこから掘り出し、どのように運んだのか、重い石をどう持ち上げ、降ろし、積み上げたのかなどについて、自ら現地で実験などを繰り返して、その方法を推定された。目を見張ったのは、竹を組んで作った筏の下に石材を吊るしても石に浮力があるので筏は沈まない、筏の下に石を吊るして川を使って運んだという推定だ。
石澤先生は50年以上にわたるカンボジアへの関わりにおいて、最初から一貫して遺跡修復を担うカンボジア人の人材育成に尽力してこられた。ポルポト時代に亡くなったり行方不明になった修復技術者の後継を育てるため、ずっと努力されている。先生は、「カンボジア人による、カンボジア人のため修復」という理念をもたれ、カンボジア人が貴重な民族遺産を自らの美意識や文化に基いて修復することを支援しようする姿勢を堅持し、強い情熱も持って行動されている。私もカンボジア在任中に何度もその現場を見せていただいた。現地には上智大学アジア人材養成研究センターを置いて活動にあたっているが、この日の講演では修復活動の現場の様子も多数のスライドでよく知ることができた。
2001年、そのセンターを拠点として行っている考古発掘調査において、「世紀の大発見」があった。バンテアイ・クデイ寺院の近くでの現場実習を兼ねた調査で274体の仏像を発掘した。カンボジアでこのような大量の仏像が発見されたのは初めてで、この発見により、それまでの通説が覆され、アンコール王朝末期の歴史が塗り替えられたそうだ。発掘された仏像は、イオンが現地に寄贈したカンボジア建築の素晴らしい美術館に収められている。
今回の講演では、アンコール遺跡の魅力や歴史が興味深く語られ、石澤先生を中心とする現地での活動について臨場感をもって知ることができた。
すでにアンコールワットを訪れている人は、もう一度行ってじっくり見てみたいという気にかられ、これから行く人にとっては格好の事前勉強になったことと思う。
絆郷のカンボジア旅行は明年1月14日から21日までを予定しているが、上智大学の修復支援現場も見せていただきたいと思っている。*************************************************************************************************************
デンマーク社会の驚異的な現実
(注)以下は、2014年4月17日、私(小川)が主宰する「絆サロン」で、デンマーク在住の小島ブンゴード孝子さんに、語ってもらったデンマークの社会の様子で、日本人には興味深いことが多いと思う。
第27回絆サロンは、4月17日、デンマーク在住の小島ブンゴード孝子さんに「高福祉国デンマークに学ぶ:人の生き方・老い方」と題して話していただいた。デンマークは私の在勤した国でも、人の生き方について、日本と実に対極的であるため最も新鮮な驚きを感じた国であった。小島さんは、1973年デンマーク人と結婚されて以来、この国に住み、日本との間を行き来しながら、社会福祉などについて幅広い言論・執筆活動を展開されている。
ブンゴード孝子さんのお話のサワリをご紹介しよう(カッコ内の感想は私のツブヤキです)。(講演要旨)
デンマークは小さくて大きな国である。北海道の半分の面積で人口は560万人。でも一人当たり国民総所得は世界第10位(日本は22位)。国連世界幸福度レポートによると、国民の幸福感はデンマークが156か国中第1位を誇る(日本は43位)。年をとるほどに生活の質が高まり、満足度が若い世代より高い。自分の生活を自分でコントロールできていると感じ、退職後の生活に不安があると思う人は60歳代、70歳代では5%以下である。(何とも羨ましい限りだが)そのデンマークのパワーはどこから来るのか。国が最も大切だと考えているのが「ひと」であって、人的資源のレベルアップやそのフル活用を目指して様々な施策をとっている。つまり、国が教育に最大の投資をし、良い労働環境づくりに努め、福祉や医療を整備する。国が人を活かし、ゆりかごから墓場まで支援をする。もちろんその政策の財源は、所得税(平均50%)、法人税(24.5%)、付加価値税(25%)が中心だ。高い税収のお蔭で、国は教育・福祉・医療を基本的に無料で提供できる。さらにデンマークは国内市場が狭いこともあって貿易立国だ。中小企業だが、コンテナー輸送、インシュリン、風力発電タービン、補聴器、豚肉、おもちゃのレゴなどの「すきま産業」の分野で世界トップクラスの市場占有率で稼いでいる。
デンマーク人は人生を3つに分けて考える。第1の人生は人間形成の成長期で、遊び、学び、自分の芽を伸ばすことに努める。1歳からデイケア(保育所+幼稚園)で社会性を養う人間教育が施される(自立心もここから身につける)。小中一貫10年の義務教育があり、中等、高等教育があるが、デンマークではいたずらに進学するのではなく、職業専門学校に行って資格を取るなど社会生活に備える。無利子、無返済の奨学金も得られる。日本のような受験競争や就活はない(親の負担がない!)。大人になっても、いつでも全寮制の国民高等学校で自分に合う教育をうける機会もある。第2の人生は社会を支える生産期と考えて、自己実現や仕事と家庭の両立に邁進する。女性の就労率は76%と世界一高い。フルタイムで働く女性が約80%だ(様々な社会制度、男女協働の育児・家事などで女性は職場と家庭を両立することが可能になる)。第3の人生は退職後の人生の総まとめ期ととらえ、心の支えは家族にあっても、子に頼らず、同居もせず、自立し自分らしく生きようとする。デンマークには「定年」という言葉はない。自分が望むときやめる。平均寿命は日本より低い(男性78.0歳、女性81.9歳)が、健康寿命は日本人より高い(男性76.8歳、女性77.8歳)。こうして、デンマークのシニアでは、旅行や余暇活動への消費が増え、薬などの医療関係経費は減少する(2000年から2008年の間で可処分所得は65歳~74歳の世代で73%アップ、納税伸び率も60%アップ)。65歳以上のシニアのケア受給率は在宅ケアが35%、高齢者住宅やケアセンターが6.9%程度だ。だから、デンマークではシニアは社会の重荷ではなく、貢献者であるといえる。
年金システムは、基本的保障と退職時の所得水準維持の二つの目的のもとで、4つの柱(国民年金、労働市場付加年金、労働市場年金、個人年金)でできている。これにより、シニアはほぼ支障ない生活を送ることができる。総人口の12%が参加するエルドラセイエンというシニアの全国組織があり、また、市のアクティビティセンターも利用者の自主運営による組織化がなされていて、これらを通じて多くのシニアがいきいきした活動を楽しんでいる。国と地方には明確な役割分担がある。国は国民年金や高等・成人教育、リジョン(地域)は医療に特化、市は福祉全般と義務教育を担う。国民健康保険はすべて税金でカバー、公的医療機関での医療サービスは無料である。高齢者ケアには、①自分で決めていつまでも自分らしく生きる、②今までのライフスタイルを維持できる継続性、③自分で出来ることは自分で行うことによる残存機能の活用という三原則があって、介護する人もされる人もこの原則を意識して守っている。北欧のセラピストたちが生み出した北欧式トランスファー(移動・移乗)介助のモデルがあり、これは介護する人もされる人どちらにも優しい介護方式である。
デンマーク人高齢者は、自分で決めて最後まで自分らしい生活を送ることが一番大切との死生観を持っている。最後はやはり自分の家で迎えたいと考えているが、その場合でも介護は家族でなくプロに見てもらいたいと考える。(質疑の要約)
50名を超えるこの日の参加者は興味津々に耳を傾け、講演後は多くの質問を行った。質疑応答を通じてさらに次のようなこともわかった。1. ケアワーカーは大半が公務員。高い給与ではないが安定した生活が保障される。
2. 政権はときどき交代するが、国の根幹に関する政策は変わらない。
3. 家庭医の制度があり、定期健康診断はないが、家庭医が個人の健康を常に見ている。
必要があれば病院での診療が勧められるが、予約制なので日本のように待つことはない。
4. お墓は日本のように「○○家の墓」ではなく、個人の墓が基本で、生前から自分で墓を予約して借りておくことも出来る。
5. 「国民高等学校」という全寮制の学校が全国に70数校あり、若い人からシニアまでいつでも自分に合った教育を受けられる。
6. 若い人も親に頼る気持ちはなく、自分で築いていく意識がある。相続を当てにしないので親は自分の資産を使い切ることができる。親もあまり子を手助けすることを考えない。
7. デンマークのような規模だからできるが日本は真似ができないという見方もあるが、「自分らしく生きる」、そのために国や国民が連帯意識を持てばできることはあろう。共助・共生の考え方で、まとめやすいサイズで政策を実施していくことは不可能ではない。意識改革は大変だし、日本には行政に専門分野のプロが少ないが、政治の意志や指導力があれば人を変えていくことはできないわけではない。以上がデンマーク在住40余年の小島さんの解説である。小島さんのお話と2年9カ月ほどの私自身の在住経験からすると、デンマーク人は、幼児の時から自立心が養われていて最後まで自分で考え自立して行動することができる。それを可能にする環境をつくるのは、高い税収に支えられた国の制度である。それにしても、日本人にとって信じられないくらいで、お伽の国の話のように羨ましく思う。どうしてそんなにうまくいくのか。その点については、歴代政府の思想や政策が明確で一貫しており、国民も高負担・高福祉を支持しているからだろう。国民が政治を信頼している。日本はデンマークの真似は出来ないが、参考にすることはできると思う。
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外国人の眼を鏡にして「日本人」を見る
(注)以下は、2013年12月の「絆サロン」の概要である。3人の在日外国人による日本論でもある。
第24回絆サロンは、12月9日に霞が関ビル35階の東海大学校友会館で行われた。今年最後のサロンなので忘年会を兼ねて気楽な会にしたいと思って、日本に住む3人の外国人に、それぞれの日本観や日本人観をざっくばらんに日本語で語ってもらった。実はあらかじめ、「お世辞は抜きに率直に話してください」とお願いしておいたせいか、忌憚のない感想が披露された。我々日本人にとって、ちょっとはっとするような、しかし、なるほど、やっぱりそうかと思うことが多く、結果としていろいろ参考になったと思う。3人に共通していた思いは、「日本人て、もう少しはっきり自分の意思を表明した方がいいじゃないの」ということのようだ。
語っていただいたのは、上智大学に2年留学後、カリフォルニア大学(バークレー校)を経て、1991年に再来日し、日本人と結婚されているスーザン山田さん、韓国人の女性ジャーナリストで、1987年に韓国「土曜新聞」東京特派員として来日、その後東亜日報、朝日新聞等を通じて幅広い活動を展開、現在はJPニュース、KR NEWSを設立して日韓双方向に情報発信をしている柳在順さん、もう一人は、フランス人でストラスブ-ル大学修士課程を修了後、日本を知りたくて2008年に来日、東京のフランス国際校で体育を指導したり、日本人へフランス語を教えながら、熱心に柔道と書道を学んでいる、シルヴィー・バックさん。3人の話のポイントを要約してみる。
スーザン山田さん:アメリカは自立とか自分で行動を起こすことが大事な社会だが、日本に来て「犠牲になる」ことや「運」ということを知るようになった。再来日して知り合い、好きになった日本人の男性は名古屋のお寺の息子さん。結婚を前提にお付き合いをして、相手のお母さんにも受け容れられたと思っていたが、正式に相手の両親のご了解を得ようとしたら、最初はダメと言われた。ショックで裏切られた気もしたが、理由はお寺がお世話になっている周りの人たちへの配慮らしい。日本人には自立心に欠けるところがあり、そこまで周りの人のことを考えるのかと驚いた。ご主人(になるべき人)は、「待つことが大事、我慢して待とう」と言う。2年ほど待って結婚することができたが、人の絆と言う見地からは、すぐアクションを起こすだけでなく我慢したり待つことの大事さや周りへの配慮について学んだ。古い考えにも一理ある場合があるようだ。
柳在順(ユー・ジェースン)さん:父が植民地時代に強制徴用され九州の炭鉱で労苦を強いられた経験から、自分はもともと反日的であったが、日本と韓国を行き来してきた結果反日派の立場は変わった。日本で多くのことを学び、日本の経済産業力を羨ましく思ったりもする。韓日双方向に発信する作業は事実を報じても反発があったりで、苦労も多い。しかし、韓国では反日感は強いものの日本について正しい知識を持つ者も少なくない。
1980年代にジャーナリストとして初来日したころ、日本人にいろいろ助けてもらった。当時の日本人は、親切で豊かで他者への配慮もあり、人の話をよく聞いて助けてくれた。90年代以降失われた10年、20年を経て日本人は変わってきた。優しさが減り、表情が厳しくなった。おもてなしの心が少なくなったようにも思う。日本は以前は目的意識を持ってアジアのリーダーを目指していたように思う。今は、目的意識を失い、気品もなくしつつある
韓国人は率直で、怒りや悲しみをはっきり出すが、日本人は30年ぐらい付き合っても本心を見せないことが多い。日本人は他人の前でもう少し率直になって自分の気持ちを表していいのではないか。シルヴィー・バックさん:来日当初、日本についての知識もなく、漢字だらけでわからない事が多かった。人が多いことに驚いたり、満員電車に乗るときも争わないことにびっくりしたりした。今は日本のことがかなり分かるようになったが、日本人は相手のことを考え過ぎたり、自分の言いたいことをあまり言わない。仲良くしたいと思っても、何も言わないと相手のことが分かりにくい。男女間のコミュニケーンは良くないようだ。黙っていても相手の気持ちがわかるとの日本的やり方は、まだ十分理解できない。フランスでは全部言わないとわからないからだ。日本人は他の人と同じようにするのに熱心で、「私もそう思う」という。もっと自分で考えた方がいいのではないか。フランスでは「タテマエ」はない。正しい、正しくないをはっきり言う。他人と反対のことを言いながら理解し合うことができる。でも、私は日本人の友達と飲み会を重ねていくうちに理解も増してきている。
日本人はコミュニケーション不足だと思う。私が日本人からいつも聞かれる質問は「納豆が食べられる?」だ。以前は電車の中で本を読んでいる人が多いのに印象付けられたが、最近はスマホばかり見つめている。(質疑応答)
スーザン山田さん:欧米人のコミュニケーションが良いからそうすべきと言っても、昔の日本でも肩を組んだり、助言をしたり、絆が強かった。現在は自由が増してきたが、以心伝心が壊れている。だから、意見を言うことも大事だ。
柳在順さん:韓日関係はいま非常に悪い。お互いに怒ってもいい。喧嘩してもいい。もっと意見をぶつけ合うべきだ。
シルヴィー・バックさん:日本人の我慢にはびっくりした。フランスではガマンがない。でも、エレベータ―が遅いとき、日本人は我慢が足りないようで面白い。
柳在順さん:(なぜ反日から親日になったのかについて)日本時代に父母が受けた苦労の経験から日本に反感があったが、日本のドラマが好きで勉強もした。植民地時代のことを許すわけではないが、日本人と多く付き合っているうちに理解して親しくなった。困っているとき助けてくれた人もいる。
(慰安婦問題について)この問題についても発信しているが、日本人の言い分を認めると韓国人からやられてしまう。日韓間では、悪いことは悪い、良いことは良いと互いに認めるべきだ。慰安婦問題について、日本人も韓国人も一緒になって調査をして、議論すべきである。こんな議論があって、懇親会になった。皿やグラスを手にあちこちで人の輪ができて、ワイワイガヤガヤと熱気のこもった意見交換や親睦の会話が続いた。3人の外国人ゲストの指摘に刺激されてか、皆、楽しそうに自分の意見を開陳していたようだった。時間はあっという間に過ぎ、会場係から「もうお時間です」と言われて、やっと中締めをしてお開きとなった。
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