- (折々の思い15)私の体験的外国語学習法
- (折々の思い14)共産党創立100年記念習近平演説を読んで
- (折々の思い13)最近の国際情勢について思うこと
- (折々の思い12)それでも開くべし、東京オリンピック・パラリンピック
- (折々の思い11)それでも募る心配:バイデン政権の発足
- (折々の思い10)オリンピック・パラリンピック開催 vs. コロナ禍
- (折々の思い9)新しい年の願い
- (折々の思い8)「自立心」「融和」「過保護」考
- (折々の思い7)米中対立の大きな禍根
- (折々の思い6)老いと死、お墓のこと
(折々の思い15)私の体験的外国語学習法
我が国では過去何十年も外国語の学び方の議論が続けられている。グローバル化が進む中で有識者会議が何度も英語教育改革を提言したり、文科省が今後の方針を示したりしているものの、現実にはあまり成果はなさそうだ。外国人とそれなりに議論のできる日本人の割合はアジア諸国に比べてもまだ相当少ないのはとても残念だ。
私は英語教育の専門家でもないので教育法について何ら調査や研究もしていないが、中学生の頃から英語を学ぶうちにどうしても外国に行ってみたいとの思いが募り、当時可能な方法で懸命に勉強した。役に立つかどうか知らないが、その体験をご参考までにお伝えしたい。
高校まで静岡市に住んでいたが、当時はNHKや民放の英語講座は全て聞いてテキストの暗記に務め、ヴォイス・オブ・アメリカ(VOA)の短波放送は雑音が入って聞き取りにくいものの毎日15分ぐらいラジオの前で神経を集中して聞いて耳を慣らし、外国人宣教師による教会のバイブルクラスに参加したり、市内の宣教師宅を時々厚かましく訪ねて会話をしたりした。ときには英語の映画を見に行ったが原語のシナリオ本を探して事前に予習して臨んだこともある。いろいろやってみると、正しい文章を暗誦するくらいにまで何十回と音読して反復する方法がいちばん効果があるように感じた。繰り返しの音読で、正しい文章がすらすらと口をついて出てくるようになり、中学や高校での英語の試験で「カッコの中に正しい前置詞や関係代名詞を入れなさい」などのような問題が出ると、何も考えずに口調で正しい言葉が出てきた。余談になるが、このような経験から、私は通常の授業で英語の文章を文法的に分析して日本語で「これが関係代名詞だ、これは目的語だ」などと説明するやり方では語学を身につける上でそれほど役に立たないと思うようになり、高校時代に出場した英語弁論大会ではしばしば「私はなぜ現在の英語教育法に反対か」というテーマを取り上げたので先生方にはあまり評判が良くなかった。
後年外務省に入り、フランスの大学で研修したときも毎日ル・モンド紙の興味深い記事を選んで意味を考えながら反復音読して頭に叩き込んだ。これによって、文章を書いたり友達と議論するときに、きれいな文章表現や単語が前後の脈略で自然に口をついて出てくるようになり、随分助けになったと感じている。だから、いまも確信犯的に、暗記するほど繰り返して音読する反復練習が大事だと思っている。
近年、子供の時からの英語教育の重要性が強調されるようになった。その関連で、もうひとつ体験を語りたい。デンマーク勤務時代にデンマークでは小さな子どもたちも含めて大部分の人が英語を流暢に話すことに驚いた。デンマーク人にどのような形で英語を学んだか聞くと、多くの人がちょっと考えたうえで、「そうですねえ、そういえば小さいときから英語でテレビやビデオを見ていたからかと思います」と答えた。その点で思い出すことがある。私がモスクワに赴任したとき、末っ子の長男は3歳になるかならないかの頃だった。息子はよくテレビの漫画番組を毎日のようにじっと見ていたが、ある時突然ロシア語で何やら喋りだしてそこにいたロシア人のメイドさんを驚かしたことがあった。しかも、その時の発音はきれいなロシア語で、にわか仕込みで習った私の発音とは雲泥の差があった。単純なことではあるが、幼児の頃から外国語をそのまま聞くことの効果は大きいことは間違いない。アニメ映画などでは画像を見ながら音声が耳に入るので言葉の発音とその意味が頭の中で自然と定着していくのではないか。家庭や幼稚園で幼児に外国語のアニメ映画などを継続的に見せてみてはどうだろうか。
最後は蛇足だが、外国人と議論するためには遠慮や躊躇は禁物である。語学能力とは別の「図々しさ」が必要だ。フランス人を見ていると数人で話している際、複数の人が同時多発的に話していることがよくある。相手が喋っているのに遮って自分の言いたいことをいう。これまで話していた人も止めることなく競って主張するような精神がある。幼いときから学校や家庭で自分の意志を明確に説明するよう教育されているからだ。ある時、フランス人の弁護士と仕事でやりあったことがある。相手がワーッとたたみかけてきたので、私が拙いながら懸命にいくつかの理由を述べて反論したら、相手はこちらの論理を一旦理解したような顔したが、それでも「ノン、ノン、ノン、なぜならそれはノンだからだ。」と強弁した。相手方に論理はなかったが、この手法を自己主張貫徹の方策として見習って、別の機会に相手に「ノン、ノン、ノン、・・・」とやって仕返しをした。
議論する場合には、言うまでもなく自分のはっきりした意見が必要だ。デンマーク時代に幼稚園を見学したことがある。ある園児が「私は何々がしたい」と言うと、先生は「それはどうして?」と問い返す。その子に自分の意志を説明させるように躾けていることを感じた。繰り返しそのように訓練されると、小さいときから自分の意志を明確に説明する習慣ができるのだろう。日本の幼稚園や小学校では「先生の言うことをよく聞いて下さ~い」とか「みんなで一緒にしましょうね」的なやり方をするので、大きくなっても先生や政府の指示を待ってそれに従って行動する人が多い。「三つ子の魂、百までも」と言われるが、デンマークのお年寄りは自立心があって、高齢になっても自分の意志を表明して動くことが好きだ。周囲も高齢者を過保護にせず、自分で行動するように仕向ける。やはり、「鉄は熱いうちに打て」である。
私は生来恥ずかしがり屋であったが、鉄の熱さも冷めてきた頃のある時からこれではいけないと一念発起して自己改造を目指し、出来るだけ人前で言いたいことを言うように自分を鼓舞して図々しさを鍛えた。韓国では大使館で広報を担当していた。韓国のメディアが時々根拠なき反日論を展開するので日頃から議論していたが、ある時主要紙の一面トップで重大な誤解に基づく反日記事が出たので、異例ではあったが急遽記者会見を開き、事実をを具体的に縷々説明した上で、反発を覚悟して思い切って韓国メディアの日頃の報道姿勢を批判した。メディアからは反論はなく、翌日こちらの主張を報じてくれた。その時も、理を尽くして明確に主張する重要さを学んだ。
(2021年8月29日)
(折々の思い14)習近平総書記の共産党100年記念演説を読んで
7月1日の中国共産党創立100周年記念式典での習近平演説要旨を読んだ。内容的には概ね想定の範囲内ではあるものの、以前にも増した感のする独善さと決意の強さに対して改めて中国への底知れぬ恐ろしさを感じた。
私は、かねてより近年の中国の気宇壮大な長期的戦略構想力と実行力に羨望を感じつつもその影響に恐怖感を抱いてきた。中国は、鄧小平の改革開放政策の成果を基礎に世界第2の経済を築き、それを背景に強大な軍事力を構築して米国に対峙せんとするようになった。「一帯一路」で世界中に自国に有利な政策を展開し、あるいは広範な海域に勝手に「九段線」を引いて南シナ海などの島嶼に軍事施設を建設したりする。常設仲裁裁判所が中国の領有権主張に根拠なく国際法違反との判断を下してもこの判断を「紙くず」と切り捨てて行動を改めない。米国がファーウエイなど中国企業に制裁を課して米国へのアクセスを絶とうとするやこれを機にしたたかに高度半導体技術育成の「自力更生」政策を強化する。7月11日付日経朝刊1面トップ記事は、中国が過去10年間アジアやアフリカの土地を囲い込んで農業鉱業分野での資源獲得に動いている状況を報じている。これも中国の長期的な深謀遠慮による行動だ。最近は香港の民主派を抑圧し「一国二制度」を破壊し、台湾統一は中国共産党の歴史的任務と称して軍事侵攻すら仄めかす。戦略とそれを実現する政策が実に一貫して揺るぎない。国内に問題があっても、どんなに国際的批判を浴びても、意に介しないで大戦略実現に向けて着々と進む、その勢いが恐ろしいのである。
今回の演説では「中華民族の偉大な復興」を大義として党の政策を正当化し自画自賛している。しかも「中華民族の血には、他人を侵略し、覇権を追求する遺伝子はない」「中国は常に世界平和の建設者であり、世界発展の貢献者であり、国際秩序の擁護者である」「中国共産党は平和、開発、公正、正義、民主、自由という全人類共通の価値観を守る。・・覇権主義と強権政治に反対する」との美辞麗句が並べられている。尊大で厚顔無恥振りには驚嘆するほどだが、党員や多くの国民はは熱狂的に習近平路線を支持する。
トランプ政権からバイデン政権に引き継がれたアメリカの対中政策により中国は相当の痛手を受けている筈である。さらに、中国の脅威への国際社会の認識が強まり、特にバイデン政権以降欧州や豪州、インドを含んだ対中連携網が形成され、日本も主要な役割を担っている。こうした対中国際連携の動きを意識してか、結党100年周年の天安門広場演説に臨んだ習近平氏は珍しく人民服を着て拳を振り上げて熱弁を奮った。総書記の決意に満ちた姿勢は、国際的批判や反中連帯に拘らずこれまでの政策を断固強力に推進するとの意思表示である。台湾統一を目指して軍事的行動に出ることも絵空事ではない。そうなれば尖閣諸島にも影響し日本は米国と一緒に対応することを余儀なくされる。
そのような事態は日米中いずれににとっても、また国際社会にとっても、深刻な事態をもたらすのでなんとしても回避する必要がある。けして容易ではないが、中国と関係国の間で外交的な話し合いを粘り強く繰り返すしか途はない。すぐにでも中国に対話を呼びかけ話し合いを始めるべきだ。この中で日本は独自の役割を果たす余地がある。
(2021年7月12日)
(折々の思い13)最近の国際情勢の変化について思うこと
近頃の世界を眺めると、変わっていない部分やかなりの速度で変わりつつある側面がある。部分的な変化や大きな流れの変化などいろいろだ。
変わっていないところは、以前にこのコラムで書いた「ならず者国家」が依然として(ロシア)、あるいは今まで以上に(中国)存在感を示していることがある。しかし、後述するように、中国の存在感が一層高まっていることから、これに対応する新たな動きが始まりつつある。
変わったこととして、まず地域的視点からはミャンマー情勢が第一に挙げられる。軍事政権は多くの場合、力づくで抑え込もうという本質的な性格があり、その本能的な自己中心と自己保全意識から視野が狭くなり、「人間の心」に配意をしなくなってしまうのは困ったものだ。アウン・サン・スーチー氏やその支持者の動きに対する恐怖感から「クーデター」に走り反対者に銃を向けるに至った。中国は「軍事政権」と言わないかもしれないが、香港民主派排除への動きは、民衆の反中的動きに危機感を抱いてなりふり構わない行動にでた点で同根である。
より大きな観点からの変化として、中国が共産党独裁のもと長期にわたり急速な軍事強国化を進め、とくに習近平体制になってからはアメリカに対峙しようとして益々大量破壊兵器や遠距離海洋兵力を増強していることがある。強化された軍事力を背景に国際関係における姿勢は一層独善的で傲慢不遜になり、これを抑えることが難しくなりつつある。とくに尖閣諸島付近や東シナ海、南シナ海での海洋行動などが成り行きによって米国等と軍事的対峙や衝突をもたらす可能性も排除できないので、日本への影響は実に深刻である。こうした中で、世界をリードすべきアメリカがバイデン政権になって国際協調主義や同盟国との連携に回帰したことが本当に良かったと思う。トランプ政権が更に4年続いたとしたら、世界は益々混乱が高まり危険な状態になったであろうので、これは世界全体にとっての大きな肯定的変化である。まだまだ不安が多いが少しだけ安堵の気持ちを抱くことが出来る。バイデン政権になって、制止し難い中国の強国化に対する国際的連携の動きに向かいつつある。この中で、日米豪印4カ国のいわゆる「クワッド(Quad)」連携が強化され、欧州も米国との協調関係に回帰しつつあるのも心強い要素である。
私は個人的に中国は好きであり経済的にも中国は日本とって極めて重要であるが、習近平体制下の軍事力強大化とその独善的拡張主義は日本にとって安全保障上の極めて大きな脅威であるので、バイデン政権下での日米安保体制の強化や「クワッド」連携は必要な要素である。先週、アメリカのブリンケン国務長官とオースチン国防長官が相次いで日本と韓国を訪問して会談した後、中国の外交担当トップの楊・王両氏がブリンケン氏を追いかけるようにしてアラスカに行って激しい米中会談を繰り広げたのは、中国がアメリカを中心とする国際連携に強く神経をとがらせている証拠である。
ともかく中国は引き続き日本にとって深刻な心配の種だ。中国に在住経験のある信頼できる複数の識者によると、中国は基本的に確固とした力の信奉者であるので、民主主義とか法の支配を唱えてもあまり効果はないらしい。日本に出来ることは、できるだけ頻繁に中国と対話を続けながら言うべきこと言う中で一定の相互理解と信頼関係を築き、それを踏まえ日米や「クワッド」の連携のなかで中国との衝突回避や妥協策を探っていくことである。対立する者同士が距離をおいて避難し合えば関係は一層悪化する。対面して意見を言い合うことが大事である。たとえ困難で長期に及ぶとも、それが外交の役割である。
(2021年3月25日)
(折々の思い12)
それでも開催すべし、東京オリンピック・パラリンピック
延期された東京オリンピック・パラリンピック開催がいよいよあと半年を切ったが、コロナ禍が収まらない中で開催に対する国内外の悲観論や懐疑論が増えてきたように見える。日本の国内世論調査でも開催しないことを支持する人の割合が多数になっているようだ。フランスの友人から、東京オリンピックは2024年に延期してパリ大会は2028年にと順次延期すべきだとの議論がフランスに出てきていることを聞いた。フランスにはパリ大会実施の準備や資金の問題があるやにも聞いている。イギリスでも再延期論が出てきたり、日本が延期のシナリオも含めて検討を始めたとの報道もあった。しばらく前、私が尊敬するオリンピック・メダリストがオリンピックは本来世界が平和で安定した状況において開かれるべきなので、今回のコロナ禍の状況では開催すべきではない旨主張し、私はその点では半ば説得されかけた。でもいろいろ考えた結果、私はそれでも東京オリンピック・パラリンピックは予定通り開かれるべきだと考える。その理由を以下に述べる。
全日本柔道連盟は、感染者数が増える中で昨年12月に66kg級のオリンピック代表決定戦、全日本選手権、皇后杯を無観客で相次いで実施した。実施の決断や感染予防対策をはじめ準備が大変だったと思うが、成功裏に終了した。試合の模様はテレビの実況とYou Tubeで観戦できたので私もじっくり観たが、観客の応援や熱気のない中での静かな試合展開は、かえって技術の質の高さや試合展開の面白さを集中して観察できて大きな感銘を受けた。これは想定外の発見であったが、無観客でもスポーツの素晴らしをより深く味わうえることを知った。仮に観客数を大幅に減らしたり譬え無観客になったとしても、世界中のアスリートたちが実に命をかけて鍛え上げてきた高いレベルのスポーツの素晴らしさとそれを競い合う感動的な戦いをテレビやYou Tubeを通じて仔細に見ることが出来、それが世界中にもたらすスポーツの価値への信奉と競い合いを通じて醸成される国際友好親善の効果は非常に大きなものがあるだろう。スポーツの発展やスポーツを通じた国際平和のためにも本年の開催はぜひ実現されるべきだ。東京オリンピックを2024年に再延期するとの考えはその貴重な機会を遅らせる。
もちろん、オリンピックを目指し必死の思いで準備してきている世界中のアスリートに思いを寄せることも極めて重要だ。柔道修習者の端くれである私は、これまで私の知る多くの柔道選手たちが命をかけてオリンピックを目指し、心身の苦しさを克服して鍛錬してきたことを身近に強く感じている。昨年1年延期されたことが、柔道以外も含めた多くの選手たちにとても大きな苦悩を与えたことを感じている。自分の調子をオリンピック時にピークに仕上げようとしている世界中の選手たちに更なる延期はまことに過酷で不条理である。かつて我が国はじめ多数の国がモスクワ大会をボイコットしたことで、出場を予定していた選手たちに実に大きな苦痛と後々まで残る悔しさを与えたことも知っている。延期や中止は選手に対する極めて大きな不公正となる。
幸い日本政府も「コロナに打ち勝った証として」実施するとの決意を維持している。政府も組織委員会も東京都も実施の意志を堅持して連日知恵を絞り、多種多様な感染防止策を考え懸命に準備している。IOCのバッハ会長も1月下旬の記者会見で、延期は考えておらず何らかの形での開催に集中している旨述べた。
最大のコロナ対策をとってオリンピック・パラリンピックを本年予定通り何らかの形で実現することの意義、世界中の人々がスポーツの価値を再認識し、スポーツを通じた競い合いがもたらす国際的友好親善や平和への寄与のためにも、譬え無観客となったとしても実施すべきである。
(2021年1月31日)
(折々の思い11)
それでも募る心配:バイデン政権の発足
今朝起きて、気になっていた6時のNHKニュースに飛びついた。そして、日本時間の未明に行われたバイデン米大統領の就任式が懸念していた混乱もなく無事終わったことを知り、フッと安堵のため息を付いた。1月6日の議事堂乱入事件のあまりにも醜くて酷い映像を見ただけでなく、就任式当日の戒厳令のようなワシントンの異常な警備状況を知り、全国の州議会でも反バイデンのデモが起きるかもしれないとの報道もあったからだ。
バイデン氏が気候変動に関するパリ条約や国際協調路線への復帰を唱えるなど、やっとアメリカがまともな方向に舵を切ることを心底から嬉しく思う。分断を修復し、全てのアメリカ人のために全身全霊を尽くすと誓う新大統領の言葉にも誠意が感じられる。心から新政権の成功を祈る気持ちだ。
しかし同時に、互いに憎み合うほどの分断と対立が深まったアメリカ社会が簡単に修復されるとは思えない。識者の分析の中にも、「選挙が盗まれた」とのトランプの扇動でバイデン政権は非合法だと信じて政権転覆を図るべく結束する極右や白人至上主義団体の存在が指摘されている。さらに、米極右の動きは欧州や旧ソ連圏等の極右とも繋がりがあるという。米欧関係や米ロ関係の修復にも複雑な影響をもたら可能性がある。それにしてもトランプ大統領が表舞台に立てない状況がこれから4年間は続くと考えると、トランプ主義は相当風化するだろうと思うのだが、トランプ信奉者の勢いは持続するとの論調もあり、心配は募る。
格差是正の政策を積極的にとることもなく、相互依存関係が深まる国際社会の構造にも思いを致すことなく「アメリカ第一主義」を唱えた前大統領の言動に煽られて、多くの米国民が偏狭な視野と品位に欠ける行動に走るようになってしまった。国内分断の修復はトランプ支持者(反バイデン勢力)の抵抗で大きな困難に出会うであろう。前途は不確かであり、不安な気持ちは拭えない。
こういう状況であるからかこそ、欧州、日本、アジア諸国、カナダなどが連帯してバイデン政策を支持することが極めて重要になる。
(2021年1月21日)
(折々の思い10)
オリンピック・パラリンピック vs. コロナ禍
コロナ禍は昨年末にかけて「第3波」が猖獗を極め、大晦日の東京の感染者数は一挙に1337人となり過去最多を大幅に更新した。昨年10月、菅新首相はオリンピック・パラリンピックについて「人類がコロナウィルスに打ち勝った証として開催」する旨述べ、11月中旬に訪日したバッハIOC委員長と日本側は大会は必ず実現することで合意した。他方で、海外ではもちろん国内でも開催反対ないし懐疑論が高まってきた。
オリンピック代表として決まっている柔道選手を知っていて、彼らや彼女らがオリンピックを目指して長い間命を懸けるかのように血の滲むような稽古を積み重ね、戦いを制覇し、大会延期などで挫けそうなときも強い精神を堅持したのを身近に見てきた私としては、何としても開催してほしいと強く思ってきた。しかし、私の友人で尊敬するある著名なメダリストのオリンピアンの方と話をしたとき、その人は、本来世界が安全で平和な状況の中でスポーツの素晴らしさを通じて国際的な友好を深めるのが目的であるオリンピックを現在の状況下で開催するのは望ましくないと述べた。コロナの現状では参加できない国や選手も増えるかもしれないことを思って、半ば説得されかけた。その後、感染状況がかなり悪化してきたため開催可能性への自信は弱まったものの、結局それでもやはり実現すべきだという考えに立ち戻ってきた。それは次のような理由による。
世界中でオリ・パラを目指して精進し代表に選ばれた多数の選手たちが積み重ねてきた素晴らしい技能を世界に見せる機会を奪われる不条理さは、たとえ参加でない国や選手たちとの不公平さより大きいのではないかと思われる。
柔道に関しては、昨年12月に、まだ決まっていなかった66kg級の代表決定戦と4月から延期されていた全日本選手権及び皇后杯(女子の日本選手権)を相次いで開催した。無観客で、会場は日本武道館のような大きな施設ではなく講道館で種々のコロナ対策をとって実施された。無観客であるので観衆の声援や熱気はなかったが、静かな雰囲気の中で試合の質の高さが際立って見えた。ユーチューブとテレビの実況があったので、誰もが一部始終を見ることが可能であった。このような新しい方式では、仮に無観客か観戦者数を相当絞っても世界の人々がスポーツの真価を知り、平和や国際協調を願うことが可能だ。
さらに言えば、1940年に予定された東京オリンピックが日本自身の戦争などで中止になったのに加え、東京オリンピックが2度めの中止の憂き目に合うことは日本人には心情的に実に忍びない。むしろ、観客数を大幅に減らして変則的な形式になったとしても東京オリンピック・パラリンピックを実施した方が、世界にとってもコロナ禍の中でスポーツの価値や効果を再認識する貴重な機会になりうるのではないかと思う。
「コロナに打ち勝った証」となるかどうかはともかく、やはり可能な範囲で最大の防御策をとって実施すべきだ。
(2021年1月4日)
(折々の思い9)
新しい年の願い
2021年が明けた。叶えられないかもしれないとの不安な気持ちで、私は次の願いを強く叫びたい。
コロナ禍が1日も早く収束しますように!
分断と混乱の深まる世界が少しでも国際協調主義の方向に向かいますように!
コロナ禍が世界中に未曾有の困難をもたらした年が明けても、状況は悪化こそすれ改善の見通しが得られない。厳しい現実を見れば、飲食業界、旅行業界等にはまことに申し訳ないが経済をある程度犠牲にしてでもしばらく外出自粛ないし禁止をすべきだろう。GO TO トラベル実施もあり、自粛要請期間でも人の外出は予想よりかなり多く、結果として「第3波」の急拡大に繋がったと思う。「GO TO トラベル」は皮肉にもGO TO トラブルになった。オリンピック・パラリンピック実施を目指す日本政府は新たに緊急事態宣言も考えるべきだ。
世界が国際協調に転ずることも虚しい願望かもしれない。以前にこの欄で書いた「ならず者国家」はまだ大方健在で、中国やロシアなどの行動の変化は期待薄だからだ。トランプ政権がやっと退陣の見通しとなり、まだ前途多難なバイデン政権がアメリカをよりまともな方向に戻そうとしていることは仄かな希望ではあり、英国のEU離脱問題が土壇場で妥協が成立し、最悪の状態がひとまず避けられそうになったことも朗報ではある。一方、分断は世界レベルでも、また多くの国の内部でも進んでいる。長期政権を目論むプーチンのロシアは構造改革の出来ない経済の持続的衰退の傾向が進み、これへの国内の反発から政権の弱化が進むかもしれないが、習近平の中国はまだ勢いが持続するだろう。
世界が少しでも国際協調に向かうためにどうすべきだろうか。望ましい戦略は、日本がバイデン新政権の発足当初から国際協調への連携を組み、同時に欧州、ASEAN、豪州、インドなどを繋いで国際協調へ向けた民主主義国間の連帯システムを構築すべく、今まで以上に外交努力を展開することだ。これは覇権への野望を隠さない高姿勢の中国に対峙するために不可欠な要素であるが、他方で、対中経済関係の緊密性からアメリカとは独自に中国に対して粘り強い対話路線を積極化すべきだ。中国の軍事力強化路線は変わらないことから日本も一定の範囲で防衛力整備を図らざるを得ないとしても、必然的に軍備拡張競争になり日本はついていけなくなるのは明らかだ。そうするより、前述の民主主義国連帯を背景にして、日中経済の戦略的互恵関係を構築するともに民主主義諸国と中国との間の戦略的対話への橋渡し役を演ずるよう繰り返し努力すべきだと考える。現実にはとても難しいが、戦略を明確にして粘り強く諸国を繋ぐ日本独自の外交を強力に展開してほしいものだ。バイデン政権に対して「足繁く」日本が建設的助言を提供することも重要である。
(2021年1月3日)
謹賀新年 2021
(折々の思い8)
「自立心」「融和」「過保護」考
日本と海外を行き来していると、各国の国民性の違いに気付いてとても興味深い。個々の国民性がその国の長所だったり短所だったり、あるいはその両方だったりする。
フランスやデンマークに住んでわかったのは、幼児のときから自分で考え、意思表示をする教育が自然とできていて、長じてこれが自立心や個性を強める効果をもつことだ。2度目のフランス勤務のとき、長女は小学校低学年、次女は幼稚園から小学校に上がったが、いずれも現地校に通った。長女がときどき級友を家につれてきて遊ぶのを見ていると面白い。一人の子が、自ら1本指を立てて「僕はこの詩を知っているよ」と叫んでそのまま前に出て、覚えた詩を朗読して得意顔だ。するとそれが終わらないうちに女の子が手を挙げて我先にと別の話を披露する。他の子供達も同時多発気的に自分の得意なジェスチャーを披露したり自分の考えを主張して飛び回る。騒然としているが溌剌として賑やかだ。学校では日常的に先生たちが子供の個性を生かす指導をしている。
デンマークで保育園を見学したとき、ある園児が「何々したい」というと、保育士は優しく「どうしてなの?」と聞いてその子に理由を聞く。園児が答えると、それにさらに質問を投げかけるなどして自分の頭で考えて意思表示るように躾けている。なるほどと合点がいったのは、デンマークでは高齢者になっても出来るだけ人の世話にならないように自立して行動する。後期高齢者が最後まで「自分らしく生きたい」と意識して行動するのは、幼児のときからの自立心の賜物ではないかと思った。制度も周りの人も高齢者を保護するというより、出来るだけ自分で行動するように助ける。
日本はどうだろう。日本では融和や協調性が大事なので、小学校の生徒たちも規律があり協調性に優れている。先生も「みんな先生の言うことをよく聞いて」、「みんなで仲良く一緒にやりましょう」的な方向に引っ張りがちだ。長女は帰国して4年の3学期に初めて日本の学校に通い始めたが、フランス式の個性教育の成果を発揮して行動したため、親の私は先生から「あなたのお子さんは個性が強すぎて」と批判的評価を頂戴したし、娘もクラス仲間から随分いじめられたらしい。
「和をもって貴しとなす」という日本の優れた精神性は他国の人々にも煎じて飲ませたいのだが、他方で、日本ではあまりにも協調性を求めたり、人々を過保護に扱う傾向が強いのが問題だ。例えば、あちこちのエスカレーターで「危険ですから手すりにつかまってください」「子供と手を繋いでください」と喧しくスピーカーが鳴る。道路工事では至る所に標識や注意書きが置かれているのになお何人かの人を配して通行者を誘導する。高齢者の扱いも過保護気味で、彼らの自立心や運動能力を弱めるようにさえ思える。このため多くの日本人が自分で考えて行動する姿勢が乏しくなる。自己主張や個性の発揮を躊躇し、リスクに怯えて冒険を避け、ひいては海外の流れに遅れてしまう。何かあると政府のせいにしたり、「おかみ」に頼ろうとしがちだ。
「融和」や「協調性」は日本人の優れた資質であり、海外に輸出したらいいが、「自立心」は海外から輸入する必要がある。
(2020年10月19日)
(折々の思い7)
米中対立の大きな禍根
米中の対立が貿易上の対立から、技術覇権の争い、更には軍事を含む危険で深刻な覇権争いとなってきた。もともとトランプ大統領の「アメリカ・ファースト」政策がとても単純な発想なので、意図した政策の結果はしばしばアメリカ自身に様々な不利益をもたらしている。自国の産業を守るために隣国や中国からの輸入に高関税をかけても国際的分業によるサプライチェーンが複雑に絡み合っているので、中国に進出しているアメリカ企業にも不利益をもたらすことがしばしばである。世界第1位と第2位の国同士の貿易戦争がチキンレース的にどんどん深刻化したため、いまやアメリカの製造業の力が低下する側面が出てきているようだ。両大国のやり取りを見ていると、中国は多大な不利益を受けながらも、実にしたたかで見ていて唸るほど狡猾にアメリカにやり返している。
最近の例では、トランプ大統領が1億人のアメリカ人が利用しているというスマホの動画投稿アプリを運営する中国のティックトック(Tik Tok)の米国事業を閉鎖するかまたは米企業に買収させようと迫る中、中国は同国が得意とするAIのアルゴリズム(計算の仕方)を輸出禁止または制限しようとしているらしい。そうなると米企業が買収してもアルゴリズム抜きのアプリでは価値が大きく減退し、米国も大いに困るだろう。
アメリカの行動の背景には、中国の様々な動きが自国の安全保障を脅かしているとの強い懸念がある。私もその懸念は理解し共有する。特に軍事面での中国の傲慢不遜な行動を抑制するには、たとえ首尾一貫性がなくてもトランプ大統領のような力が必要だ。しかし、経済面での行動は、グローバリゼーションのなかで綿密・広範に形成されてきた世界的な相互依存の生産・交易体制を分断(デカップリング)するもので、アメリカだけでなく、米中両国に多大な経済的利害を有している日本をはじめとする他国にも甚大なマイナスの影響をもたらし、世界経済全体の成長を損なうことになる。トランプ流のハッタリに中国がしたたかに対応するに従い、国際経済体制の分断は深まっていく。一旦分断された国際的なサプライチェーンに関係国企業が対応を余儀なくされた後に、これを元に戻すのは容易ではなく、分断は世界にとって実に深刻な禍根を残すことになる。
日本は第三国として呑気に高見の見物をしている場合ではない。特に隣国中国が軍事的に強大化しアメリカと対峙しようとしていることから、アメリカの同盟国として集団自衛権を行使しうる立場の日本にとって、軍事的行動を余儀なくされる状況は排除されない。
経済面・安全保障面での米中対立の現状は大変危険である。解決の方向は、米中間のチキンレース的対立の停止、話し合いと妥協しかない。具体的にどのように妥協しうるかについて名案はないが、これから日本の首相の交代と米国の大統領選挙があるからといって米中対立状況に対応する政治的猶予はない。日本は、他国とも連携して米中間の妥協を探る方向でしっかり関与することが不可欠だ。
(2020年9月16日)
(折々の思い6)
老いと死、お墓のこと
ずっと昔の若い頃に、「俺は100歳まで生きる」と何の根拠もなく自信を持って言っていた時期がある。きっと健康にも自信があり、やりたいことも多ったからかも知れない。でも後期高齢者になったいまは全く長生きに執着しない心境にある。高齢者で生きることは楽しいこともあるが、体や頭が動かなくなると自分自身が苦労するだけでなく、周りの人や社会保障制度の大きな負担になるのは必定である。そういう例をいくつか見てきたので、何とか「ピンピンコロリ」と行きたいものだとしきりに思うようになった。たとえ病の中で死を迎えるとしても延命装置もせず平常心で早く逝きたい。だから、ともかく元気なうちに断捨離をして身辺をきれいにし、子供や孫への申し伝えの備えを急ぎたいと思う。
さて、死ぬとなると墓のことが問題になる。自分の両親の墓は郷里の静岡にある。両親には心底からの感謝と愛着の念があるし、墓所は今棲んでいる東京から200キロもないので、墓参りは面倒どころか心をこめた父母との再会の機会でもあるので嬉しい気持ちでやっている。かつてホノルルに住んでいたとき、日系人がよく花を持って墓参りに行く習慣を見た白人系の住人が、子孫たちが代々にわたって先祖を敬う日本の風習を素晴らしいことだと称賛していたの、内心誇らしく感じたことを思い出す。
だが、自分の番になって考えてみると、墓の問題には厄介なことも多い。私は長男なので、普通なら自分の骨は静岡の両親の墓に収められることになる。だからといって自分の子供や孫やさらにそれよりあとの世代まで静岡に墓参りに来させることにはいささか躊躇がある。先祖を敬う気持ちを養うのは美風であることは間違いないが、孫や曽孫たちが東京から遠いところ、さらには外国に住んだ場合にはなおさら墓参りは大変だし、墓の管理は出来ないだろう。
私は自分の骨は駿河湾に散骨してもらいたいと強く思っている。小さいときはよく駿河湾で泳いだ。海原を眺めて、あっちが外国だなと思ったりした。子供や孫たちに墓参りの負担をさせたくないという気持ちもさることながら、自分が静岡高校時代にアメリカに留学した経験が世界への夢を掻き立て、結果的に外交官になり世界を行脚したため、退官した後は「世界が終の棲み家」であると実感しているからでもある。自分には土地への執着はあまりない。散骨は望むところだ。しかし、散骨してもらったとしても今ある両親の墓は誰が管理するのかという問題は解決しない。両親の墓を管理するのは当然「長男の努め」だから、私が生きている間はできるが、私の死後に自分を知らない曾孫たちにまで私の両親も眠る墓の管理を委ねるのか。両親の墓は「永代供養」として管理を委託することも考えられるが、私の姉や妹は納得しないかも知れない。
どうしたらよいか、依然として心の葛藤があるが、元気なうちにこの問題も解決しなければならない。
(2020年6月22日)